「官場現形記」の真偽問題


 『清末小説研究』第6号(1982.12.1)に掲載。世界繁華報館増注本『官場現形記』は、日本の古本屋で発掘したものだ。阿英編『晩清戯曲小説目』(上海文藝聯合出版社1954.8/増補版 上海古典文学出版社1957.9)、孫楷第『中国通俗小説書目』(北京作家出版社1957.1)、また魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)にも該書の記載はない。中国の研究者二、三にも問うたが、いずれも資料不足で回答不能という返事をもらった。きわめて珍しい版本であるといえる。珍しいばかりでなく、研究上重要な意味を持っていることは、本文で述べた。[2000.4.15追記:「きわめて珍しい」と書いたが、現在は、それほどではないと思う。日本で入手できるくらいの版本だ。中国で所蔵されていないはずがない。所蔵されているとしても、思うに、世界繁華報館本という認識があるだけで増注部分に注目されていないのではないか。それにしても、なぜ、言及する研究者がほとんどいないのか。不可解だ。今、私は、61回以降の続作を「偽作」とすることについても変更がありうると思うようになっている]

○はじめに

 「官場現形記」の後半は李伯元の作ではない、とする説がある。
 それも昨日今日の問題提起ではない。李伯元の友人・欧陽鉅源が書いたものだ、いや、そうではない、と現在に至るまで約55年間にわたって意見が対立したままだ。
 仮に、「官場現形記」後半が李伯元の作ではないとなれば、どうなるか。「官場現形記」の記述をもとに、李伯元の政治的立場、思考傾向、作家意識をさぐっていた大方の論文は、その立論の根拠を瞬時にして失う。
 作品の真偽は、いうまでもなく根本問題である。問題がすでに提起されているにもかかわらず、意図的に不問にしているのか、あるいは単に気がついていないのか、ほとんどの論文が「李伯元の書いた「官場現形記」」を既成の事実として論を展開しているのは、不思議なことだ。

○真偽問題の発生と展開

◆胡適の場合
 「官場現形記」の後半、特に第五編(49-60回)は李伯元の作ではない、と言い始めたのは胡適である。

証言1:胡適「官場現形記序」
 官場現形記は、彼(注:李伯元)の最も長い作品であり、光緒辛丑(1901)より癸卯(1903)までに前の三編が成った。各編12回である。つづく二年(1904-05)でさらに一編(傍点)が成立した。翌年(光緒丙午1906)、彼は死去してしまった。本書の第五編は、別人が第60回までつづけて無理矢理終わらせてしまったのかもしれない*1。(傍点樽本。以下同じ)

 胡適のいう偽作説は、「官場現形記」執筆時期と李伯元逝去の時間的ズレに根拠をおく。すなわち、初編から四編は1901年より1905年の間に書かれたが、李伯元は1906年に死亡してしまった。ゆえに、残る第五編は他人の作品である、というわけだ。
 胡適の文章は、魯迅の『中国小説史略』をもとにしている。念のために魯迅の記述も見ておく。

証言2:魯迅「清末之譴責小説」
 宝嘉は、また商人の依頼に応じ「官場現形記」を書いた。全十編各編12回を予定し、光緒二十七(1901)年より二十九(1903)年まで三編が成り、つづく二年でさらに二編(傍点)が成立した。三十三ママ年三月、肺病で死去するが、歳は四十(1867-1906)、該書はついに完成せず*2。(注:文中にママと注した光緒三十三年というのは三十二<1906>年の誤りである。「該書はついに完成せず」とは、120回まで書かれなかった、の意)

 執筆時期のみを問題にすれば、五編60回を書き終えて李伯元は死去したとするのだから、この魯迅の文章からは偽作説の出てきようがない。しかし、胡適は、魯迅の記述をほとんどそのままふまえているにもかかわらず、重要なところを1ヵ所だけ書き換えた。傍点部分「二編」を「一編」としたのだ。そうすると、李伯元死亡時には五編が成立していないことになる。偽作説が出てくる根拠である。
 胡適が魯迅説を書き換えた根拠は、なにか。不明である。書きかえの根拠そのものが不明確というのが、胡適の偽作説の弱点だ。

◆阿英の場合
 胡適につづいて偽作説をとなえたのは、阿英だ。1935年、偽作説をうち出した阿英は、1955年まで――あるいは1977年、彼が逝去するまでと言ってもいいが、一貫してその主張をかえていない。
 「官場現形記」と「海天鴻雪記」には、茂苑惜秋生の序がついている。当時、魯迅と胡適は、茂苑惜秋生は李伯元の筆名のひとつだと考えていた。阿英は、論文「惜秋生は李伯元の変名ではないこと(「惜秋生非李伯元化名考」)を書いて、惜秋生は欧陽鉅源のことであり、李伯元とは別人だ、と考証してみせた。そのついでに、「官場現形記」の最後の数回は欧陽鉅源の手になるものではないかと問題を提出している。

証言3:阿英「惜秋生非李伯元化名考」
3-a 李伯元は、「活地獄」を第39回まで書いて死去した。呉〓人が、彼にかわってまず3回を書きつぎ、その後はどういうわけか茂苑惜秋生がかわって続けたが、しかし、1号分を書いただけで『繍像小説』が停刊してしまった。これらは出版時期から考えられることで、決して李伯元ではないことがわかるのだ。その1回(注:「活地獄」第43回、『繍像小説』第72期掲載)のほかに、「官場現形記」の最後の数回もこの人(欧陽鉅源)が続けたのではないかと、私は疑っている*3。
3-b もし「官場現形記」も彼(欧陽鉅源)が続けたものであるならば、そうなると第60回こそはより大きな証拠である。彼は、あれら官僚たちをまったく「頭ごなしにしかりつけ」ている。感情の面で茂苑惜秋生の方が李伯元よりもずっと若いのだ*4。
3-c 「官場現形記」の最後の数回は、(李伯元の)名前を出して惜秋生に稿をつづけさせてみせたので、おそらく二人の人間の手になるものではなかろう。▲この点に関しては、近作『李伯元』という単行本ですでに詳細に論及したので、ここではこれ以上くどくどと述べない*5▲。(傍線樽本)

 3-aで、阿英は「疑っている」としか言っていない。それが3-bでは、あたかも決定しているかのように拡大する。自説を補強するために第60回の内容をその証拠にあげる。仮定から得られた結論を、こんどは逆に仮定を補強する証拠として使用するのは論理的ではない。阿英は偽作説に強い自信を抱いていたようだ。3-cでは「おそらく二人の人間のてになるものではなかろう」と書き、欧陽鉅源が作ったことを強調している。
 阿英の強調にもかかわらず、なんら証拠らしきものは提示されてはいない。3-cの傍線部で、詳細に論じた単行本があると書いている。しかし、後にこの傍線部は削除されている。同文を収録した上海良友図書印刷公司版『小説閑談』(1936.6.10、75頁)および解放後出版された上海古典文学出版社版『小説閑談』(1958.5、22頁)のいずれにも傍線部分はみあたらない。『李伯元研究資料』にも再録されるが、本文を上海良友図書印刷公司所収のものに拠ったため、当然、これにもない。
 『李伯元』という本とは、呉泰昌編「阿英著作目録」にみえる『李伯元評伝』*6のことであろう。しかし、1934年に書かれた原稿は、鄭振鐸の手を経由して上海生活書店に渡されたまま、ついに日の目を見ることはなかった。この事実が、傍線部分を削除させることになったと想像される。
 出版はされなかったが、偽作説を論じたことがあった。阿英にしてみれば、すでに証明ずみのこととして意識されてしまったのかもしれない。阿英は、その後、「官場現形記」にふれるたびに偽作説をくりかえす。

証言4:阿英『晩清小説史』
 「官場現形記」は、60回が現存している。李伯元のはじめの意図は、もともと10編120回を書くつもりであった。光緒二十七年から二十九年までに三編を書き、つづく二年で二編弱が成ったが、三十三ママ年に死去し、本書は未完となった。後にその友人が第五編を完成させ、全部で60回、繁華報館より発行された*7。

証言5:阿英「『官場現形記』について」(関於『官場現形記』)
 「官場現形記」五編60回は、光緒癸卯(1903)より編にわけて世界繁華報館から発行された。李伯元は五編を書き終わらぬうちに死去したので、後の数回は茂苑惜秋生(欧陽鉅源)が無理矢理つづけて完成させたという*8。

 証言4、5では胡適説をとり入れ、偽作説は阿英にとって確信にかわってしまっているのがわかる。
 だが、阿英説の肝心の論証部分は、依然として欠落したままだ。私としてみれば、何だか放置された格好で、納得がいかない。
 阿英によってくりかえし唱えられた偽作説に安易にとびつく論者もでてくる。

証言6:周貽白「官場現形記索隠」
 官場現形記は、繁華報にいた時に書いたものだ。辛丑(1901)より乙巳(1905)まで、全部で四編48回を完成し、丙午(1906)に至って死去する。その第五編49回から60回までは他人の続作である。(中略)阿英の小説閑談では、官場現形記のうしろ12回は茂苑惜秋生が続けたものだとしているが、すこぶるその可能性がある*9。

 周貽白自身は論証をしておらず、ただの受け売りというよりほかない。
 北京人民文学出版社張友鶴校注本『官場現形記』(1956.6)において、同社編輯部も、李伯元は作品を完成しないうちに病没したため、最後のごく一部分は友人が補ったものだ、と説明している。
 最近のものでは、林瑞明が阿英説を踏襲する*10。
 以上、胡適、阿英に代表される偽作説の根拠は、わずかに胡適のいう、李伯元の死亡時にはまだ第五編は書かれていなかった、という点(証言1)に集約されるだろう。その他、阿英を含めて証拠らしいものは何もあげられていない。

◆反論
 偽作説を否定する論も、当然、存在する。解放前、解放後を通じて明らかな形で最初に疑義を表明したのは、李錫奇だ。
 李錫奇は、李伯元と同族で、伯元が死去した時、十七歳であった。李伯元は、生前に李錫奇の家に一時期滞在したことがあったらしい。李錫奇は、伯元の人となりを知っている貴重な存在のひとりだと言えるだろう。

証言7:李錫奇「李伯元生平事蹟大略」
 ある人は「官場現形記」の後半部は、例の報館(注:世界繁華報館)の助手・欧陽鉅源が続けて完成させたものだ、と疑っているが、それは事実ではない。そもそも伯元の生前に、私はその本全部を読んでいたが、『繁華報』自印の四号活字の版本であった。この本には茂苑惜秋生の序がついている。ある人は欧陽鉅源の作になるものだといい、また、茂苑惜秋生は決して欧陽鉅源ではないという人もいる。考えるに、伯元は光緒丙午(1906)三月に没したが、しかし、該序は光緒癸卯(1903)中秋後五日に成っており、それはすなわち伯元が逝去する四年前である。ゆえに、これまた伯元の自作という可能性もある*11。

 李伯元を実際に見知っている李錫奇にして、偽作説を否定する根拠を示すことができない。「それは事実ではない」と頭ごなしに決めつけているだけだ。さらには、茂苑惜秋生の序は李伯元の作かもしれないといっているが、これまた彼の根拠のない想像にすぎず、これでは反論にならない。

◆魏紹昌の場合
 反論の体をなしているのは、唯一、魏紹昌の論文のみである。
 「『官場現形記』の著作と刊行問題」(「《官場現形記》的写作和刊行問題」)と題されたこの論文は、魯迅『中国小説史略』の李伯元部分に関する記述(証言2を参照)に疑問を呈したものだ。疑問−回答の順に魏紹昌の見解を紹介する。
 問題はみっつある。
 その1:「官場現形記」は、「商人の依頼に応じて」書かれたというが、本当か。――李伯元自身の経営する『繁華報』に連載していたのだから、それはありえない。
 その2:「官場現形記」の連載期間は1901年より1905年としているが、はたしてそうか。――現存する『世界繁華報』9部の連載情況から推測して、第1回は光緒二十九(1903)年四月に始まり全編は光緒三十一(1905)年六月に完結されたとする方が正しい。
 その3:作者死去のため60回で未完に終わったのか。――第60回末尾の記述から見て、作者としてはこれで終了させるつもりだった。続けて、さらに60回を書く目論みなどなかった、と推測する。
 魏紹昌論文で重要なのは、李伯元の生前に「官場現形記」は完結していた、という点だ。
 この次が肝要な部分である。少し長いが引用する。

証言8:魏紹昌「《官場現形記》的写作和刊行問題」
 李伯元は前半部(注:五編60回)でさえ完成しておらず、最後の小部分はやはり彼の友人がかわって補ったものだ、とある人(注)は考えている。この種の論法にどういう根拠があるというのだろうか。作者が病没して、「該書はついに完成せず」から生じた誤解であろうと私は推測する。「官場現形記」は光緒三十一(1905)年六月には新聞紙上ですでに連載を完了しており、全部は遅くとも光緒三十二(1906)年正月にはもう出そろっていた。また、李伯元は光緒三十二(1906)年三月十四日に死去したが、彼がわずらっていたのは慢性肺結核で、その年の二月に発行された『繍像小説』第69期には、彼の書いた「活地獄」がまだ続けて発表されている。このことから、李伯元の筆は死に至ってやっと手放されたものであることがわかる。「官場現形記」の成立はそれ以前であったからには、李伯元にかわって友人が補う必要がどうしてあったであろう*12。

 文中の「注」で示した部分の「ある人」とは、胡適と阿英である。
 胡適の偽作説がよってたつところは、李伯元が死去した時点で「官場現形記」は完結していなかった、という点にある。しかも、これは実証されていないのだ。魏紹昌は、胡適説の弱点を狙いたがえず突いている。
 1927年、胡適の偽作説が唱えられて以来、36年目にしてようやく実証的な反論が加えられた。これで問題は一挙に解決した、とこうなればめでたいことで、私もこんな論文を書く必要などない。ところが、そうは問屋が卸さない。
 李伯元を知る人物が、李伯元の原稿の多くに欧陽鉅源の筆が加わっていた、と証言しているのだ。

◆新たな展開
 「官場現形記」の「代作者」としてしばしば名前があがっている茂苑惜秋生とは、本名を欧陽淦という。字は鉅元(または鉅源)、原籍、生年ともに不明。蘇州に住み、十四、五歳で秀才の資格を得た。彼と同じ試験を通過したのが包天笑である。1898年冬、上海に出た欧陽は、『游戯報』に投稿したのが契機となり李伯元と知り合い、以後彼の有力な助手となった。上海の張園で包天笑に李伯元を紹介したのも、この欧陽鉅源である。約八年間、李伯元の仕事を手伝う。光緒三十二(1906)年三月、李伯元が死去すると『世界繁華報』の編集を引き継ぐが、光緒三十三(1907)年十二月、花柳病をわずらい上海に客死した。二十五歳、あるいは三十歳にも満たなかったという。
 彼の作品には、〓園という筆名で「負曝閑談」30回を『繍像小説』(第1-41期)に連載するほか、「維新夢伝奇」の前半6齣も同じく『繍像小説』(第1-6期)に惜秋生名で掲載している。李伯元の「活地獄」を第43回のみ茂苑惜秋生名義で執筆したことはすでに述べた。その他、病紅山人〓樹柏との合作「玉鈎痕伝奇」がある。
 この欧陽鉅源と親しい間柄であり、生前の李伯元とも面識のあった包天笑は、次のように証言する。

証言9:包天笑「晩清四小説家」
 後に鉅源は私に次のように話した。彼(注:李伯元)の『游戯報』は、まったく鉅源に委ねられており、自分はまったく執筆しようとはせず、つまり、小説もまた鉅源が代作していて、伯元は一日中応対交際をするばかりで花柳界の官吏役をつとめていただけだ。(中略)欧陽鉅源のいうところによると、伯元の多くの小説はすべて彼が代作したもので、伯元の名前を用いたにすぎない。ただし、「官場現形記」も彼(注:欧陽鉅源)の筆になるものかどうか、彼にたずねたことはなかった。(伯元は官界のことに熟知していたから、彼自身が書いたものに違いないと私は思う)「文明小史」などであれば、私は原稿を見たことがあるが、たしかに鉅源の筆が加えられていた*13。

 「官場現形記」は李伯元の自作に違いないと考えるカッコ部分は、たしかに初出誌にある。しかし、これは包天笑の想像を述べたにすぎない。「文明小史」などに欧陽鉅源の手が加わっていて、「官場現形記」のみにはそれがないと言い切れるだろうか。事実、包天笑の後の文章には、最初の強い否定は徐々に姿を消していく。

証言10:包天笑「茂苑惜秋生の事を補述する」(「補述茂苑惜秋生事」) 
 ある人は「官場現形記」の後半部はすべてその(注:欧陽鉅源)手になるものだという。*16

 「ある人」とは、阿英あたりをさすのであろう。ここに至ってまったく疑問は提示されなくなっている。偽作説に大きく傾いたといえるだろう。
 くりかえすが、包天笑は「文明小史」などの原稿に欧陽鉅源の筆が加わっているのを見ているのだ。「官場現形記」にはそれがないと断言できるだろうか。
 李伯元の生前ですら、彼の名を冠した作品に欧陽鉅源の手が入っていた、という事実を前にすれば、李伯元の存命中に「官場現形記」は完成していたので、李伯元自身の作品に違いないとする魏紹昌の立論は成立し得ない。
 「官場現形記」には欧陽鉅源の筆になる部分があるかないのか、問題は振り出しにもどってしまった。
 李伯元の死亡時期と「官場現形記」の連載時期が判定の根拠とならないならば、それにかわるものは他にないのか。
 私なりの答えを出すための材料として、世界繁華報館増注本「官場現形記」が使用できるのではないかと考えている。つぎに増注本の説明から始めよう。

○増注本「官場現形記」

◆増注本
 たて17.3cmよこ11.2cm、日本でいう新書判に近い。活版線装本。半葉12行、各行23字、割注を施す。版心の、上から「官場現形記」、魚尾の下に巻数、丁数、「上海世界繁華報館校刊」と記してある。世界繁華報館原本と版式は同じだ。異なるのは、増注本という呼称の由来する割注があることと、表紙の印刷外題(原本は題簽)である。
 手元にあるのは、7冊(四編――巻37-39/巻40-42/巻46-48/五編――巻49-51/巻52-54/巻55-57/巻58-60)のみである。残念ながら全冊ではない。増注者名および刊年ともに記入されていない。刊年などの記載がないのは、端本だから、という理由ではないだろう。記載があるとすれば、初編の冒頭だ。
 増注本といえば、絵図を加えた2種類がある。粤東書局本(光緒三十(1904)年十一月、石印線装本、四編48巻と五編巻52-60を既見)と崇本堂本(刊年不記、石印線装本、三編36巻を既見。魏紹昌によると増注者欧陽鉅源、滬遊雑記と記した宣統元(1909)年二月改訂初版本があるという*17)が存在し、両者は基本的に同文である。
 対照してみると、世界繁華報館増注本は、この粤東書局本、崇本堂本ともおおよそ同文であった。世界繁華報館というのは、「官場現形記」原本を出版しているところである。ということは、同じ世界繁華報館を記すこの増注本は、とりもなおさず粤東書局本、崇本堂本のもと本である。その作者は、李伯元の親密な友人・欧陽鉅源のほかは考えられない。事実、扉に「欧陽鉅元増註」と書いてある。
 粤東書局本に記された光緒三十(1904)年十一月という時点では、「官場現形記」は『世界繁華報』紙上に連載中のはずである。その粤東書局本がよった版本なのだから、世界繁華報館増注本は、新聞連載および分冊で発行されていた原本と並行して出版されたことになる*18。

◆手続き
 世界繁華報館から、時間的に極めて接近して発行された原本(東洋文庫所蔵本を使用)と増注本という2種類の「官場現形記」が存在する。この2種類を比較検討する価値は充分にありそうだ。
 そこで、原本と増注本の本文を対照し、加筆、削除、書換、入換がそれぞれ何字あるかを調べた。各巻の総字数(回目、署名を除く)のうち、それらの占める割合を百分率ではなく百万分の1の単位ppmで表記したのが「表・『官場現形記』書き換え率」である。加筆、削除、書換、入換を総称して「書き換え」ということにする。
 巻1-36と巻43-45は、世界繁華報館増注本が手元にないので比較していない。最初、粤東書局本、崇本堂本で欠をおぎなうことができると考えた。ところが、くわしく対照しはじめると、この両増注絵図版本間に異同のあることが判明したのだ。原本と両増注絵図本の巻1をならべてみると、粤東書局本のみの相異箇所が3ヵ所*19、崇本堂本のみの相異箇所が52ヵ所*20、両本とも原本と異なる箇所が1ヵ所あった*21。これでは筆写する人間の手がさらに加わっていることになり、もとの世界繁華報館増注本のかわりに使用するには危険が大きすぎる。
 書き換え率を図になおしたものを掲げる。書換と入換は誤植を訂正したものも含まれる。念のため加筆と削除だけのものを破線で示しておいた。

◆読解
 表および図から読みとることのできる事実は、次の三点である。
事実1:書き換えがある。
事実2:書き換えの多い巻とそうでない巻がある。
事実3:五編のみならず、それ以外にも書き換えがある。
 以上、三つの事実はお互いに関連しあっているが、これからいくつかの読解ができるだろう。まず、否定的なものから。
読解1:原本はあくまでも李伯元の作で、欧陽鉅源は増注本を作る際にのみ手を入れた。
読解2:書き換えといってもppmを使用するくらいの少なさであって、問題にするにはあたらない。
 読解1に対する問題はこうだ。欧陽が本文に手を入れ、注を施したものが、なぜ、原本と同じ世界繁華報館から出版されたのか。また、李伯元はなぜそれを黙認したのか。その理由を説明できない。
 読解2でいう「書き換えの少なさ」であるが、これは「量」の問題ではない。作者自身による書き換えであるならば問題は別だ。しかし、他人による書き換えとなると、そのこと自体がおかしなことなのだ。
 つまるところ、書き換えがあるという事実(事実1)をどう考えるかにかかっている。
 増注本は、李伯元の生前から出ている。しかも李伯元のおひざ元である世界繁華報館から出版されているのだから、彼の承認がなければ考えられないことだ。原本が李伯元のみの筆になるものならば、それを書き換えた増注本を刊行することを李伯元は許したであろうか。それが出版されている事実は、すなわち、
読解3:原本自体に欧陽鉅源の手が入っている
ことを証明している。はじめから欧陽鉅源の作になる部分があったからこそ、それを書き換えた増注本を出版することを李伯元は認めたのである。
 では、どの部分が欧陽鉅源の作か。これを判断するのは困難である。しいて言うならば、事実2から、
読解4:書き換え率の高い巻は、李伯元の作である。あるいは、正反対で、欧陽鉅源の作である
と考えられる。書き換え率の高い巻→李伯元の作である、というのは「他人の作品には手を入れたくなる」と考えたからだ。その反対に、書き換え率の高い巻→欧陽鉅源の作である、とは「自分の文章だから勝手に手を入れる」ということだ。
 欧陽鉅源の場合は、どちらかといえば前者ではないかと想像する。というのは、曾孟樸「〓海花」の例があるからだ。同書最初の数回は金松岑の原稿をもとにしている。20年後、曾孟樸は改訂版を書いているのだが、その際、最初の数回には大幅な修改をほどこしている事実がある。ここには他人の作品には手を入れたくなる作者の心理がうかがわれるのではないか。
 いずれにせよ書き換えがあること自体、欧陽鉅源の手になる部分が原本にあったことを示しているならば、事実3の五編以外にも書き換えがあるということは、
読解5:「官場現形記」全体にわたって欧陽鉅源がかかわっている可能性が高い
ということになる。

◆結論
 欧陽鉅源の手が加わった原稿でも発見されない限り、「官場現形記」が偽作であるかどうか確定することはできない。しかし、原本と増注本を対照した結果、「官場現形記」の作成には欧陽鉅源が一枚かんでいる可能性が高いことがわかった。李伯元と欧陽鉅源の親密な関係を考えれば、「偽作」というよりは二人の「共同作品」として「官場現形記」をとらえる方がいいだろう、というのが現在の私の結論である。

【注】
1)胡適「官場現形記序」上海・亜東図書館本『官場現形記』1927.11初/1933.8四版。『胡適文存』3集巻6、上海・亜東図書館1930.9初/1936.12五版。768頁。『中国章回小説考証』実業印書館1942初版未見、上海書店影印1979.12。438頁。魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。20-21頁。以下、資料と略す。
2)魯迅「第二八篇 清末之譴責小説」『中国小説史略』所収。北京・新潮社下巻1924.6(初出未見)。訂正本、上海・北新書局1931.7。356頁。『資料』2頁
3)阿英「惜秋生非李伯元化名考」『太白』半月刊第2巻第8期1935.7.5。366頁。最近、中国より影印版も出された。
4)同右。367頁
5)同右。367頁
6)『阿英文集』全2冊。生活・読書・新知三聯書店香港分店1979.6。901頁。阿英「海上買書記」(『海市集』上海・北新書局1936.11所収。『小説閑談』上海古典文学出版社1958.5、『阿英文集』香港三聯書店、『阿英散文選』天津・百花文藝出版社1981.6にも収める)に「李伯元伝」という書名で出てくる。
7)阿英「第11章 官僚生活的暴露」『晩清小説史』上海・商務印書館1937.5。198頁。北京・作家出版社版1955.8。129頁。北京人民文学出版社版1980.8。129頁
8)阿英「関於《官場現形記》」『小説三談』上海古籍出版社1979.8。206頁
9)周貽白「官場現形記索隠」『文史雑誌』第6巻第2期1948.5.15。56頁
10)林瑞明「第3章 官場現形記与晩清腐敗的官場」『晩清譴責小説的歴史意義』国立台湾大学文学院1980.6。64頁
11)李錫奇「李伯元生平事蹟大略」『雨花』第4期1957.4.1。『資料』33頁
12)魏紹昌「《官場現形記》的写作和刊行問題」上海『文匯報』1962.7.11。『資料』117頁。この論文を紹介したことがある(樽本「魏紹昌氏の李伯元に関する二篇の論文」『中国文芸研究会会報』第18号1979.2.27)。また、魏紹昌論文は、旧暦と新暦を混同して使用しているため、引用に際して年号「光緒」をおぎなった。
13)包天笑「晩清四小説家」(初出は「清晩四小説家」)、「釧影楼筆記」7『小説月報』第19期1942.4.1。34-35頁。『資料』28頁
14)包天笑「補述茂苑惜秋生事」香港『大公報』1962.8.1。『資料』496-497頁
15)李錫奇「李伯元生平事蹟大略」『資料』33頁。樽本「「官場現形記」裁判」を参照。
16)包天笑『釧影楼回憶録』香港・大華出版社1971.6。142頁
17)『資料』72頁
18)樽本照雄「「官場現形記」の初期版本」『清末小説研究会通信』第12号1981.11.1。同第16号1982.3.1を参照。
19)1裏(原本)必開因見→(粤東)必開因因見→(崇本)必開因見
20)たとえば、1裏(原本)有両顆合抱=(粤東)有両顆合抱→(崇本)有両個合抱など
21)5表(原本)一定要辞館→(粤東)一定館→(崇本)一定辞館