「官場現形記」の初期版本
『中国文芸研究会会報』第31号(1981.12.1)に掲載。中国現代文学を専攻するある研究者から、文中にあげた版本の全部を持っているのか、と問われたことがある。一瞬、何のことかよくわからなかった。原本であれ、やむを得ぬ場合は複写であれ、できるだけ現物を確認してから文章を書きたいと考えてきた。比較検討をするためには手元に諸版を持っていなければできない。過去に文献操作だけで目録をつくり、既見、未見の区別もせず、案の定間違いを指摘された苦い思いがあってからは、なおさらのことだった。現物を見なければ版本研究は成り立たないことは、自分だけの理解であるのか、はやらないことをやっているな、とわれながらおかしかった。太田辰夫氏からは、複数の版本を配合したものを「配本」という、とご教示いただいた。長澤規矩也『図書学辞典』(三省堂1979.1.20)に、「はいほん 配本 入れ本の漢語」、「いれほん 入れ本 欠けた冊を別に伝来した冊で補った本。足し本。配本。補配本。補本。補足本」とあるので附記しておく。(2000.4.12[]を追加する)
○現在までの版本研究
李伯元「官場現形記」の版本について言及した文章で、比較的早い時期のものに上海・亜東図書館本(1927.11)の汪原放「校読後記」がある。汪が集めた版本は決して多くはなく、わずかに3種、すなわち世界繁華報館本(光緒乙巳<1905>正月三版)48巻24分冊、「滬遊雑誌ママ」と記す石印本(注:崇本堂本)[60回]、および標点鉛印本(注:上海・群学社本1923)のみであった。[標点鉛印本を上海・群学社本と断定するのは、亜東図書館本以前に鉛印本で出版されているのは、群学社本しか存在しないからだ]
続く阿英は、『晩清小説史』(上海・商務印書館1937.5、198頁)において、「当時は版本は幾種もあり、絵図増注石印本が繁華本よりもっと美しかった。また、日本・知新社の光緒三十年(一九〇三ママ<注:1904の誤り>)活版本があり……」と述べる。この部分は、改定版である北京・作家出版社版(1955.8)でも、北京・人民文学出版社版(1980.8)でも書きかえはない。版本は幾種もあると言いながら、阿英が『晩清戯曲小説目』(上海文藝聯合出版社1954.8/増補版 上海・古典文学出版社1957.9)で披露しているのは、繁華報館本(1903)線装30冊、その翻本(海賊版1904)および日本・知新社本でしかない。『晩清小説史』の「官場現形記」部分を改稿した文章(『小説三談』上海古籍出版社1979.8、206頁)には、『増注絵図官場現形記』(粤東書局1904)と海賊版の看板をおろしてその書名を明らかにしているだけである。
孫楷第『中国通俗小説書目』(北京・作家出版社1957.7北京第1版未見、1958.1北京第2次印刷)も、阿英と大同小異で繁華報館本と粤東書局本をあげる。
人民文学出版社本『官場現形記』(1957.6/1979.12)の出版説明は、繁華報館本、粤東書局本に崇本堂本(1909)をつけ加えて、これまた3種である。
魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12、72頁)には、比較的多くの版本が紹介されている。すなわち、繁華報館本(1903-1905、分冊出版)、粤東書局本、日本・知新社本、崇文ママ<注:本の誤り>堂本、上海・亜東図書館本、世界書局本(1935.11)、人民文学出版社本だ。
日本では、中野美代子が翻訳『晩清小説史』(平凡社1979.2.23、346頁)で、「版本が幾種もあって」という箇所に注をつけ、「現在の主な通行本は次の通り。@民国十六年(一九二七)、上海亜東図書館刊。胡適序。A一九五四年、北京宝文堂書店刊。B一九五七年、人民文学出版社刊。張友鶴校注」と記している。曾樸の「〓海花」の成立過程と版本について、@からMまで注を施し説明しているのと比較して、通行本を3種あげてすませているのは、何とも物足らない。
いずれも多くもない版本をただ列挙するだけで、版本の系統といった問題には無頓着だ。
そういう情況にあって、ただひとつ宮田一郎「『官場現形記』の版本」(明清文学言語研究会会報単刊8、1965.3.30、「官場現形記」語彙注釈索引あり)だけが、多くの版本にふれ、それらの系統について説明している。宮田の結論を、より簡潔した『中国語学新辞典』(光生館1969.10.15/1970.5.1再版、254頁)から次に引用する。
光緒29年(1903)に世界繁華報館から鉛印単刊、以後数版を重ね宣統元年(1909)には崇本堂から石印本が刊行されるほか、光緒30年(1904)粤東書局石印本など版本は数種にのぼる。民国12年(1923)に上海群学社、民国16年(1927)に上海亜東図書館、民国24年(1935)に上海世界書局から新式標点本が出版され、解放後も1956年上海文化出版社、1957年に人民文学出版社から発行された。これらの版本は、繁華報館本と崇本堂本の2系統に大別できるが、崇本堂本は錯簡・誤脱があるほか、語彙も一部異なる。テキストとしては繁華報館本が信頼でき、亜東図書館本、人民文学出版社本はこの系列である。ただし両者とも独自の校訂をしている箇所がある。
上海新文化書社本(1934.2再版)、上海・大達図書供応社本(1935.5再版)、[北京・宝文堂書店本(1954.11)、北京・通俗文藝出版社本(1955.9)など]がぬけているが、今はそれが問題なのではない。
版本は繁華報館本と崇本堂本の2系統に大別できるというのが宮田の主張である。前出論文「『官場現形記』の版本」からおぎなえば、「「繁華報本」からたゞちに「崇本堂本」がうまれたのではなく、その間にこの版本(注:光緒甲辰<1904>四月再版、活版線装、三編36回18分冊、出版所不明)などに類するものがあって、これらを経由して、そのあいだに修改(あるいは錯誤)をかさねて、つくられていったことがわかる」(26頁)という。
宮田説のポイントは、版本を2系統に分け、その中間に橋渡し的版本を設定するところにある。
私は、「繁華報館本」(用語が適切ではない。原本となづける)と「崇本堂本」(宮田氏が粤東書局本の系統といわないのは、[なぜだか知らない]。これを増注本と呼ぶ)の2系統に分けることには賛成する。しかし、その両者の間に橋渡し的な版本があることを認めない。原本から増注本がただちにうまれたのであって、それ以外の版本は2系統の両者を、ごちゃまぜ、つまみ食いした本であると考える。
つぎに「官場現形記」の書かれたいきさつを述べながら、原本系と増注本系にわけ、さらに新しい資料をもって、それを説明しよう。
○初期版本の系統――増注本の位置づけ
ここでいう初期とは、民国以前をさす。民国以後に発行された版本にはふれない。
◆原本系
「官場現形記」は、最初、
@『世界繁華報』紙上に光緒二十九(1903)年四月から光緒三十一(1905)年六月まで連載された。
A初版(巻1-12)は光緒二十九(1903)九ママ月に発行された。続編(巻13-24)は光緒三十(1904)年四月以前に、三編(巻25-36)が光緒三十(1904)年十一月以前に、それぞれ繁華報館からまとめられ順次出版された。四編(巻37-48)と五編(巻49-60)の出版期日も不明だが、光緒三十一(1905)年以内に出されたと考えられる(@Aともに魏紹昌の提出した仮説であって、新聞の現物で確認されているわけではない。確認はされていないが、魏紹昌説は、それほど事実をはずれていないだろうと私は考えている。魏紹昌「《官場現形記》的写作和刊行問題」<『李伯元研究資料』115-116頁>)。
刊行年は、初編の扉に記すだけで、続編以降にはつけない。[上の文中に「光緒二十九(1903)年九ママ月」としたのは、現物を見るかぎり「八月」が正しい。]
増田渉文庫に、光緒二十九(1903)年八月十六日発行の24巻12冊が所蔵されている。初編にあとから続編をくっつけたわけで、これがはじめの形態であろう。[くりかえず。発行年月日が記されるのは初編だけだ。続編以降は、発行年が記載されていない。だからこそ上に掲げた続編以降の発行年は推測にならざるをえない。]
また、同年月日の日付をもつ60巻20分冊というのもある(東洋文庫)。初編6冊、続、三編各4冊、四、五編各3冊、とそれぞれ1冊あたりの所収巻数が異なっている。五編を見てみると、転倒して植字された箇所がいくつかあり、初版であると考えられる。後刷りでは、そうした箇所は当然訂正されるはずだからだ。
◆増注本系
B「世界繁華報館校刊」と柱に明記する増注本がある。刊年不記。巻37-42、46-60の7冊。新出資料である。『李伯元研究資料』にもふれられていない。[私が日本の書店で発掘した。世界繁華報館発行でしかも増注本である。きわめて珍しいといわねばならない。中国の研究者にも問い合わせたが、そのような増注本が機関に所蔵されているかどうかは不明である。日本で発掘できる版本が、中国にないはずがない。考えるに、所蔵されているにしても世界繁華報館本として認識されているだけで、増注本であるかどうかの吟味がなされていないではなかろうか。]
この世界繁華報館増注本は、
C粤東書局石印本(光緒三十<1904>年十一月、四編48巻12分冊、絵図あり)、および
D崇本堂石印本(宣統元<1909>年二月改訂初版、増注者は欧陽鉅源、絵図あり。魏紹昌による)
と基本的に同文である(注)。
Bの増注本が原本と同じ世界繁華報館発行であるという点が重要だ。
他の出版社で出した増注本を、本家の世界繁華報館があらためて海賊版として出すとは考えられない。[考えなくても海賊版ではありえないことがわかる。本家が出版するのだから、いわば正統増注本である。]
つまり、世界繁華報館増注本は、粤東書局本、崇本堂本の元本なのだ。
増注者の欧陽鉅源は、光緒三十三(1907)年晩冬に死去している。この増注本は、それ以前の発行であろう。また、粤東書局本が光緒三十(1904)年十一月発行だから、それ以前にはもう部分的にでも出版されていたと想像される。ということは、「官場現形記」が『世界繁華報』に連載されている時に、すでに増注本が作られていたことを意味する。
欧陽鉅源は、李伯元を助けて八年間も一緒に仕事をしていた。二人の関係から考えても、作品執筆と増注本の作成が同時に進行していた情況も不自然ではない。
ゆえに、宮田説の2系統本の間に橋渡し的版本が存在するという論は成立しない。
原本からただちに増注本がつくられたのだ。橋渡し的版本と見えたのは、実は、2系統本つきまぜ版本である。
ことに、民国以後に発行された各版本は、原本と増注本を適当にこきまぜて編集しているにすぎない。
(注)増注本に絵図をつけ加えた石印本――粤東書局本と崇本堂本は、絵図の部分が微妙にちがっている。しかし、一見しただけでは区別がつかない。この2種類の版本を合体して所蔵するところもある。たとえば、諸岡文庫所蔵のものは、初−三編は崇本堂本で、四、五編が粤東書局本である。
<翻訳官場現形記>解説(入矢義高)に、「また太田辰夫氏からは本書の粤東書局(あるいは崇本堂?)石印本を貸与され」とあり絵図が収められている(中国古典文学大系第50、51巻平凡社1968.12.5/1969.6.5)が、これも絵柄の違いから36巻(三編)までが崇本堂本で、残りが粤東書局本であることがわかる。