「官場現形記」裁判
『中国文芸研究会会報』第33号(1982.4.1)に掲載。孫菊仙については、劉炎臣「“老郷親”孫菊仙生平記略」(『天津文史資料選輯』第21輯1982.9。183-190頁)が出た。
○法廷での自供
「上海に『官場現形記』という書物があり、小説の体裁で官界の妖怪を描いている。当書が近ごろ他人によって翻刻されたため、著者は裁判所に訴え出た。『中外日報』の記事によると、「本書は、官界を誹謗して絵にかいたようにありありとしている、と審問官は判定した」という文句がある。審問官とは、官である。絵にかいたようにありありとしているとは、本当のことを書いているという意味である。「『官場現形記』は、絵にかいたようにありありとしている」と官に言わせているのだから、私は、あえてこれを法廷で自供したものだという」(『新小説』第2年第8号<総第20号>刊年不記[光緒三十一(1905)年八月?]147-148頁。[]は推測。魏紹昌編『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。106頁。以下『資料』と略す)
「官場現形記」を裁くつもりで、はからずも官吏自身を裁く結果になったことを笑うのがこの文章の目的である。だから、裁判がいつ行なわれて、だれが被告席に立ち、どういう結果に終わったのかなどの詳細は、当の『中外日報』を探し出さない限り明らかになりそうにない。
ただ、訴えられた海賊版の版元については推理をはたらかせることはできそうだ。
原本『官場現形記』のほかに、当時出版されていたのは、
@世界繁華報館増注本 発行年不記
A出版元不記本 光緒三十(1904)年四月再版
B日本・知新社本(日本・吉田太郎著) 光緒三十(1904)年六月
C粤東書局増注絵図本 光緒三十(1904)年十一月
D崇本堂増注絵図本 宣統元(1909)年二月改訂初版
の5種類である。
@の増注本は、原本と同じ世界繁華報館から出版されているので、これは海賊版とはいえない。
Aは出版元が不明なのだから、訴えようがない。
Bは「日本・吉田太郎」「日本・知新社」と日本を強調する。しかし、発行年を中国の年号である「光緒」を使用していて、明らかに中国で出版されたことを示している。架空の著者と出版社で、おまけに日本を隠れみのにしているのは、シッポをつかまえられないための用心だ。これも告訴のしようがない。
残る可能性は、CとDの増注絵図本を出した書店である。Dの崇本堂は、改訂版を出している。改訂版ではないものをそれ以前に出版していることが知られる。
訴えられたのは、粤東書局か崇本堂か。今のところ、それはわからぬ。
[2000.4.14追記:本文を発表して約20年が経過する。今にいたるまで崇本堂が1909年以前に発行した初版を目にすることができない。もしかしたら、「改訂初版」というのは、自らが出版した「官場現形記」を「改訂」したという意味ではないのかもしれない。つまり、他の出版社が出した版本に対して「改訂」を加えたと読むべきか]
○談合
もうひとつの場合は、正式な裁判ではなく、裁判官立ち会いの、いわば談合である。
李伯元の死後、世界繁華報館の経営と「官場現形記」の版権をめぐって、残された遺族と欧陽鉅源(李伯元の親しい友人であった)の間でイザコザがもちあがった。
光緒三十二年三月十四日(1906年4月7日。『資料』4頁は9日に誤る)、李伯元は肺病のため上海に客死した。その葬儀は、京劇の名優であり、李伯元の親友でもあった孫菊仙によってとり行なわれている。孫菊仙は、李伯元の臨終に立ち会い、3千元の銀兌換紙幣を取り出し、1千元を葬式費用に、残りの2千元を遺族の扶養費に当てると申し出た(『資料』8頁)。
李錫奇は、その後の模様をおおよそ次のように述べている。
『(世界)繁華報』は独立経営で、李伯元の死後、同族には主宰する人物がおらず、他人に任せる必要があった。ところが、欧陽鉅源が不法にも占有しようとしたので、急いで同族を呼び集め、孫菊仙にたのみ込み、善処を依頼した。孫菊仙は、約110名の人々をある西洋料理館に集め、欧陽鉅源をも招いた。孫菊仙はそこでふたつの提案をする。ひとつは、『繁華報』を停刊するか、あるいは人に任せて継続するか。参会者は、一致して継続を主張したが、欧陽鉅源をはばかって自分がと申し出る者がいない。そこで孫菊仙は欧陽鉅源に編集事務を依頼し、彼はそれを引き受けた。もうひとつは、「官場現形記」の海賊版の件である。増注絵図本が出て、原本の売れ行きに大影響をおよぼしている。列席した裁判官・関炯之にたずねると罰則などを教えてくれた。海賊版を出したある「書館」の支配人も同席しており、孫菊仙は、原本および版権を3千元で、その「書館」に買収してもらうよう調停し、その通りになった(『資料』33-34頁)。
[欧陽鉅源が死去するのは、李伯元逝去のすぐあと、光緒三十三年十二月ころだと推測される。欧陽鉅源が出席しているのだから、西暦に換算すれば、1908年1月以前の出来事だとわかる]
遺族にしてみれば、『世界繁華報』を欧陽鉅源に譲ることにはなったが、孫菊仙からの2千元のほかに、さらに3千元が転がり込んだのだから文句はない。
欧陽鉅源は、『世界繁華報』を切り回していたのは自分だとという自負があったに違いない。欧陽鉅源を前にして経営を引き継ごうと申し出る者がいなかったことからも、周囲の人々は彼の実績を認めていたことがわかる。それなのに、欧陽鉅源は追い出されそうになった。そこを孫菊仙の提案で救われたのだから、欧陽鉅源にとっても好都合であったろう。
海賊版を出したある「書館」も、罰金をのがれることができた。3千元は大きいが、印刷済みの原本込みであるから、元は取れると考えたかも知れない。
三方がまるく収まり、孫菊仙の聡明さばかりが目立つ事件である。
包天笑は、ある「書館」というのは、当然、商務印書館であると断定している(『資料』497頁)。しかし、商務印書館から出版された「官場現形記」は存在しない。包天笑の断定は、当たっていない。
ここでも、粤東書局と崇本堂の2軒の書店が残る。しかし、前述の裁判との関連がはっきりしない。どちらの書店かを判定するのには、決め手を欠く。両書店の活動は、「官場現形記」の出版くらいのものだ。他にどういう作品を出したのか不明だし、経営者が誰であったのかさえわからない。
出版社の研究が必要であることを痛感する。当面は、『中外日報』にこだわらず、当時の新聞を調査すれば何か手掛かりがつかめるのではないか、と自分ではできぬことをあれこれ考えておるのです。