発 言 の あ と
――「不要軽視小事」のこと

樽 本 照 雄




 私は、さきごろ「不要軽視小事」(中国語)を書いた(『読書』1998年第8期1998.8)。
 『呉〓人全集』全10冊(哈爾濱・北方文芸出版社1998.2)を点検していて、ぶつかった問題だ。
 該全集は、呉〓人「二十年目睹之怪現状」の底本として広智書局本を使用したと説明する。それは、いい。ところが、その第4、5巻は、「ともに同年十二月に出版された(均同年十二月出版)」と書いている。誤りである。光緒三十二年(1906)の十二月に出版されたのは、第5巻だけだ。第4巻は、前月の十一月に発行された。
 正確に記述すれば、広智書局本第4巻丁巻の奥付には、「光緒三十二年十一月二日」とある。第5巻戊巻には、「光緒三十二年十二月十六日」と印刷されているのを見ることができる。
 簡単このうえない。原本の奥付を見るだけでいい。書き写せば、こうとしか書きようがない。底本にしたのだから、『呉〓人全集』の編者は、原本を見ているはずだ。それをなぜ書き誤るのか。理解できない。うっかり間違った、ということも考えられる。念のため、過去の研究をさかのぼって、大いに驚いた。中国の専門家の全員が誤記しているのである。
 阿英(1954)が、第4巻、第5巻ともに「一九〇六年十二月刊」と書いたのが最初であろう。つづく、魏紹昌(1980)、王俊年(1985)、盧叔度(1979、1988)、中国近代小説大系本(1988)、裴效維(1998)のすべてが、同じ誤りを踏襲する。
 これはどういうことなのか。呉〓人「二十年目睹之怪現状」といえば、誰でも知っているように清末小説の代表作のひとつである。その最重要版本の一部発行年月について、中国の専門家が例外なく誤って記述している。阿英がコケたら皆コケた。
 中国の専門家が、広智書局本を見ていないわけがない。見ていない版本を底本にすることはできないからだ。しかるに、なぜ、出版年月を書き誤るのか。ほとんど信じられないことだ、と私は思ったのだった。
 あるがままを、直視する。ここから研究が始まるのは、いうまでもない。
 書籍の奥付に印刷された発行年月を、写し間違うことも、たまにはあるだろう。だが、1954年に阿英が誤記を公表して以来、現在まで、40年以上にわたって、中国の専門家の全員が書き誤ることがありうるだろうか。おまけに、それを指摘した人が、中国大陸には一人としていなかったのだ。
 たった1ヵ所の書き誤りだと軽視してはならない。針ほどのことを棒にして発言していると考えてもならない。小さなところに全体を象徴する事物がひそんでいる場合がある。広智書局本の出版年月こそ、この例にほかならない。結局のところ、研究の信頼性の問題だ、と私は強調した。
 以上の論旨だけを引き抜いて短く書いたのが、中国語の文章である。中国語で発表したのは、こういう重要問題は、中国の研究者に広く知ってほしいと考えたからだ。日本語でも論文は書く。私にとって日本語の方が、比較して自由に思考することができる。ただし、国境をこえて研究者共通の認識とするためには、中国語の方が便利なこともある。
 中国語の文章を発表した後、私に感想をよせてくれる人がいた。ありがたいことだ。
 事の性質上、意見はふたつにわかれる。
 まず、事実の意外性に率直に驚くもの。まさか、と半信半疑であるらしい。私も、最初は、まさかと思った。だからこそ、事実だと知ったときはこれを公表すべきだと考えたのだ。
 中国人研究者その人から、原本が入手困難で初版を見ておらず先人の記述を写した、という手紙をいただいだ。出版年の誤記と呉〓人評価とは、関係がない、とも付け加えられる。当然だ。私が問題にしているのは、研究の信頼性についてなのだ。研究者の側にこそ問題が存在していることを指摘している。見ていないものをあたかも見ているかのように書くことが問題なのだ。
 もうひとつは、冷笑である。私のことを「あいかわらず批判しかしない」と言っていた、と伝える人がいて、お節介なことをすると私は思う。発言者が発する例のニタニタ笑いが想像できて、私の頬にも笑みがうかぶのだった。批判の内容を問題にせず、ましてや批判されるようなことをしたのは誰か、発言者は考えてもみないらしい。おめでたい。
 思いだせば、伝えた人は、発言者の言葉について反論を付け加えなかったから同じことを考えているのだろう。あるいは他人の口を借りて自分で批判してみせたのかもしれない。「あいかわらず批判しかしない」人物だと、他人の目に私の姿が映っていることがわかって、おもしろかった。これを、人徳がない、と一般に称する。人徳がない、と私を批判したところで、誤記の踏襲という事実が消えるわけではない。批判された対象を擁護したことにはならないのだ。
 少し表現が異なるのは、言い過ぎではないか、というものだ。実名をあげるのは、中国人の面目をつぶすことになりはしないかと心配してくださる。
 面目という、学問とは関係のない事柄を出されたのには、いささか腑に落ちないような、わかるような、微妙な気分だ。
 批判が、政治的意味を持つ時代が、中国には、たしかにあった。学術上の批判を装った政治的な攻撃である。ある作家なり、作品なりの評価をめぐって、評者の政治的立場を問題にすることが、すなわちそれである。実生活の政治主義を研究の分野に持ち込むものだ。
 だが、今回の問題は、それとは質的に異なる。重要版本の出版年月の誤記を指摘しただけである。揺るがしようのない事実だ。まさか、誤記に政治的立場が表出しているわけではあるまい。研究姿勢が表われている、ということはできてもだ。
 では、誤記を指摘したことが専門家の面目を傷つけることになるのだろうか。
 中国人研究者どうしでは、その類の指摘はしないものなのか、考えてみる。だが、あえて見ぬふりをすることなど、あるはずがない。これだけ競争が激しくなっている時代だ。他人の誤りを見過ごすほど研究者は、甘くはない。中国の学術雑誌には、しょっちゅう批判、反論の文章が掲載されている。
 だからこそ、間違うはずのないことを専門家全員が間違い、その間違いを40年以上も見逃してきたという事実が、問題の大きさを象徴しているとしか思えないのだ。ひとことでいえば、権威にたいする無批判な服従である。
 問題の大きさを認識するためには、実名をあげるよりしかたがないのだ。またそれに値すると私は、十分に自信をもって断言する。

参考文献:樽本照雄「文献をあつかう姿勢――『呉〓人全集』を例として」(『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻第245号)1998.9.15