どもッ!




英国図書館



英国図書館玄関からニュートンを見る




 新しく建設された英国図書館を訪問する機会があった。
 研究者専用に機能を絞りこみ、全面電脳化された最新設備である。利用を目的とする人について面接をして利用カードを発行する。5年間有効。無料。利用カードがなければ、図書室に入室もできなければ、電脳の操作による図書閲覧も不可能な設計になっているのが目新しい。
 中国文学研究者には、無縁のように思われるかもしれない。しかし、清末翻訳小説研究の分野にかぎっては、どのみち不可欠な図書館なのだ。
(2000.10.30)




范伯群主編『中国近現代通俗文学史』の出版



『中国近現代通俗文学史』の表紙




 范伯群主編『中国近現代通俗文学史』上下2冊(南京・江蘇教育出版社2000.4)が出版された。
 清朝末期から民国時期に、大衆から愛された文学は、革命文学の陣営からみれば、批判の対象でしかなかった。批判すべき文学について詳細に紹介されることは、ない。研究に力がはいらぬどころか、それを研究することは研究者自身が批判にされされる危険性をおびる。
 建国50年にして、ようやく清末から民国を鳥瞰する「大衆文学史」が出現したといえるだろう。快挙である
(2000.6.7)




『中外小説林』影印版



『中外小説林』影印版上冊の表紙




 『中外小説林』の影印版全2冊(香港・夏菲爾国際出版公司2000.4)が出版されており、これを入手した。
 『粤東小説林』第3、7、8期、『中外小説林』第5、6、9、11、12、15、17、18期、『絵図中外小説林』第2年1−8、11期が収録されている。珍しい雑誌の影印本だ。広告ページも収録されている。全冊揃いでないのは残念だが、手軽に利用できるようになっただけでもありがたい。
(2000.5.24)




『図画日報』影印版の問題点



『図画日報』影印版第1冊のカバー




 『図画日報』の影印版全8冊が出版された。上海古籍出版社1999.6。
 馮金牛の「序」に説明されて詳しい。1909-1910年に発行された挿絵付きのいわばグラフ雑誌である。日刊であるのも珍しい。『点石斎画報』『飛影閣画報』に続くものだ。
 404号までを収録しており、閲覧が容易になった点でも高く評価したい。巻末には、王興康、徐小蛮、呉旭民、章行編「図画日報分類索引」があって検索が便利だ。
 実は、私は、原物を60冊あまり所有している。日本の書店から購入した。しかし、恐ろしくてあまり手にしていない。しまったままにしている。なぜなら、酸性紙らしく、手に取ればボロボロと崩れるのである。値段のはる古書であったが、これでは利用しにくい、と頭を痛めていた。
 だから、このたびの影印版出版を心から喜びたい。全冊だからなおさらだ。
 ところが、影印版を点検してみると、致命的な欠陥があることに気付いた。ひとつは、広告が省略されていること。中国で作成されるこの種の影印版によく見られる。
 決定的なのは、発行年月日が記述されていないこと。解説で、創刊が1909年8月16日だとは書いてある。しかし、それぞれの該当箇所に発行年月日がまったく記されていない。これでは、ほとんど使い物にならないではないか。
 原物には、表紙がついていてそこに発行年月日が印刷されている。その表紙を影印していない。必要ないと判断したのだろうか。もしそうであるならば、その人は、研究者ではありえない。
 私の所有する原物により、発行年月日は、どうにか判明する。私が利用するには、支障はない。だが、私以外の研究者が使用しようとしても、かなり使いづらいものになるだろう。本当に、信じられないくらいズサンな編集である。
(1999.11.2)




魯迅「造人術」の英文原作



“The Cosmopolitan”1903-2



Louise J.Strong“An Unscientific Story”



 これが、魯迅「造人術」のもともとの英文原作だ。英文原作→日本語翻訳→漢語翻訳の順に訳された。当時の翻訳状況は、こういう経路をたどるものが少なくない。
 英文原作を読んでみると、魯迅にとっては、寝耳に水状の恐ろしい事実が判明した。文章を準備したので、ご期待ください。(『清末小説から』第56号掲載予定。2000年1月1日のだから、本当に笑ってしまう)
(1999.8.20)




小説叢書出版のブームか?



『中国近代孤本小説集成』全5冊
北京・大衆文芸出版社1999.3



 以前、中国では辞書ブームというのがあった。その果てに、粗製濫造におちいるのは当然だ。表紙と表題だけが異なった中身の同じ辞書を私も購入したことがある。
 小説を収集した叢書も多くなった。便利であるとはいうことができる。
『中国歴代珍稀小説』全4冊(北京・九洲図書出版社1998.5)
『明清言情世情小説合集』全6冊(北京・中国文聯出版公司1998.6)
など、清末小説が納められていて目が離せない。
『中国近代孤本小説集成』全5冊(北京・大衆文芸出版社1999.3)も最近の出版物である。本叢書のみの収録作品もあり、ありがたい。だが、困るのは書誌情報が欠落していることだ。せっかくの叢書なのに、惜しいことだと言わねばならない。
(1999.7.12)




中西文化〓撞与近代文学



郭延礼『中西文化〓撞与近代文学』
済南・山東教育出版社1999.4



 上に掲げたのは、郭延礼氏の最新論文集である。上篇に文学観念、理論などに関する論文を集める。中篇に翻訳文学関係論文を、下篇には詩歌、小説関係の諸論文を収録し、附録には、「劉鶚与《老残遊記》国際学術討論会」の総括報告などを収める。『新編清末民初小説目録』の書評も本書によって読むことができることをつけくわえておこう。
(1999.6.27)




中国近代小説目録






 「中国近代小説大系」シリーズは、南昌・江西人民出版社より1988年から出版がはじまった。1991年に百花州文芸出版社と改名する。3期に分けて出版されていたものが今回ようやく完結したわけだ。全80冊。その規模の大きさは、阿英編集「晩清文学叢鈔」、「中国近代反侵略文学集」および台湾・広雅書局の「晩清小説大系」を超えていること、周榕芳の後記にある通りだろう。第80巻にあてられた「中国近代小説目録」も注目に値する編集ものだ。雑誌初出を中心に掲載し、541ページにのぼる力作である。
(1999.3.14)




ローマに行列を見る






 古い建物ばかりのヴェネツィアは、車が走っていないから信号灯もない。見た目は時代がかった店の中身が、なんかヘン。マネキンがヒゲ男で、足下はと目をやるとハイヒールを履いている。ウーン。思わず店の中に入ると、奇妙な下着などが飾ってある。ロビン・ウイリアムズが来店した際の写真が置いてあったりして、映画祭と関係があるのだろうか。
 ローマのスペイン広場には、有名ブランド店が集まっているらしい。行列ができているので目を引く。「プラダ」をはみだしている全員が日本人だ。おまけに若い男女で、学生にしか見えない。外国人観光客も行列を見物していて、私もそれにならったというわけ。イタリア経済を支援していると考えることもできるだろう。
(1999.3.6)




未来車?






ルノーの未来車か?

 パリのモンマルトル丘をさがったところで見かけた。ナンバープレートがないところからわかるように、展示用らしい。小型に見えるかもしれない。立っている人と較べると、二人乗りにしては巨大である。天蓋も透明だから夏は暑いのではないか。と思うのは私が日本人だからだ。冬なのに通りに面した吹きさらしの席でコーヒを飲みたがる人々なのだ。小窓もない。酸性雨を想定しているといわれれば納得する。だが、パリを走るには大きすぎるな。
(1998.12.29)




劉徳隆著『劉鶚散論』昆明・雲南人民出版社1998.3






 劉徳隆著『劉鶚散論』については、すでに短文を発表している。劉鉄雲と「老残遊記」についてのひさしぶりの専著である。その目次を以下に示す。


(『劉鶚散論』)序一 陳 玉堂
(『劉鶚散論』)序二 樽本照雄

前言

第一輯
試論劉鶚対甲骨学的貢献
劉鶚的夢説
阿英一篇違心的改稿
《老残遊記》版本概説
《老残遊記》手稿管見
史料中的劉鶚与蘆漢鉄路
80年代大陸的劉鶚及《老残遊記》研究

第二輯
《劉観察上政務処書》簡介
劉鉄雲《十一弦館琴譜》述議
介紹劉鶚《弧角三術》
略談劉鉄雲的収蔵
《老残遊記》校点後記
関於《<老残遊記>作者所語之異事》
 附:劉大紳《<老残遊記>作者所語之異事》
有関劉子恕的四件資料

第三輯
刀布肩来満一筐 苔花侵蝕古文章――劉鶚収蔵古銭概述
劉鶚与梁啓超及戊戌変法
 附:樽本照雄《劉鉄雲読過梁啓超的原稿?》 袁子能訳
劉鶚致汪康年信之我見
宋伯魯和劉鶚詩試析

第四輯
《周太谷手迹》和劉鶚題識簡析
試析黄葆年給劉鶚的一封信
毛慶蕃致蒋文田書浅析

後記

(1998.11.8)



『常州李氏家譜』『南亭回憶録』上下



『常州李氏家譜』/李錫奇『南亭回憶録』上下 ともに私家版(1998.9)



 李伯元の親族が発行したもの。1960年代に書かれた李錫奇の李伯元に関する文章を原稿のままに影印する。李伯元研究には、重要な意味をもつと思われる。
(1998.10.12)



『中国近代翻訳文学概論』



郭延礼『中国近代翻訳文学概論』
漢口・湖北教育出版社1998.3



 中国についに登場した本格的な近代翻訳文学研究の専門書である。緒論、上篇(理論、詩歌、小説の概説、政治小説、探偵小説などの分野別)、下篇(梁啓超、厳復、林琴南、蘇曼殊、包天笑、魯迅兄弟、胡適などの個人別)、人名索引、書名索引、引用書一覧で構成される。
 本書の特徴は、参考にした研究文献が、中国に限っていないところにある。すなわち日本、香港などの先行研究成果をも積極的に取り入れているのだ。その結果、詳細でかつ幅広い説明が同時に成立するという珍しい成功例を示すことになった。
 今後、中国の翻訳文学研究は、本書を出発点とすることになる。この分野の研究者が必読の書物であることに間違いはない。
(1998.7.17)



『中国近代珍稀本小説』



董文成、李勤学主編『中国近代珍稀本小説』全20冊
瀋陽・春風文芸出版社1997.10


 大型叢書である。表題にある通り、今までとは異なり、比較的珍しい小説を集める。作品集が増えれば、研究状況も改善されていくことになる。大歓迎である。収録作品を掲げておく。



笏山記 69回■吾廬居士(蔡召華)戯編
回天綺談 14回■玉瑟斎主人著


英雄涙 26回 4巻■冷血生
金陵秋 30章■林゚
紅楼夢影 24回■顧春編纂


女G石 16回■海天独嘯子
狐狸縁全伝 22回■酔月仙人
庚子国変弾詞 40回■李伯元


掃迷帚 24回■壮者(丁逢甲)
中国現在記 12回■南亭亭長(李伯元
月球殖民地小説 35回■荒江釣叟


情変 8回■呉熕l
宦海昇沈録 22回■黄世仲
雪岩外伝 12回■(日)大橋式羽
新中国未来記 5回■梁啓超


苦学生 10回■杞憂子
海上魂 16回 4巻■陳墨濤
自由結婚 20回■猶太遺民万古恨著 震旦女士自由花訳
断鴻零雁記 27章■蘇曼殊


殺子報 20回 4巻
醒世新編 32回■緑意軒主人(蕭魯甫)
糊塗世界 巻12■繭叟(呉熕l)


大馬扁 16回■黄小配
禽海石 10回■符霖
鄰女語 12回■連夢青
海外扶余 16回 4巻


獅子吼 8回■陳天華
古戍寒笳記 46回■葉楚〓(葉小鳳)
中東大戦演義 33回■洪興全

10
宦海 20回■張春帆
玉梨魂 30章■徐枕亜
未来世界 26回■春z

11
市声 36回■姫文
恨海 10回■呉熕l
李公案奇聞 34回■惜紅居士編纂

12
盧梭魂 12回■懐仁編述
如此京華 上下巻32回 二集上下巻16回■葉小鳳
黄金世界 20回 上下巻■碧荷館主人

13
雪鴻涙史 14章■徐枕亜
東欧女豪傑 5回■嶺南羽衣女士(羅普)
京華碧血録 25章■林゚

14
轟天雷 14回■藤谷古香(孫景賢)著
多少頭顱■亡国遺民之一
学究新談 25回■呉蒙
後官場現形記 8回■白眼(許伏民)

15
劫余灰 16回■我仏山人(呉熕l)
苦社会 48ママ回■佚名著 海上漱石生(孫玉声)叙
痴人説夢記 30回■旅生

16
冷眼観 30回■八宝王郎(王濬卿)
玉仏縁 8回■{生
発財秘訣 10回■呉熕l

17
罌粟花 25回■観我斎主人
黒籍冤魂 24回 3編■彭養鴎
負曝閑談 30回■園(欧陽鉅源)
瓜分惨禍預言記 10回■日本女士中江篤済藏本 中国男児軒轅正裔訳述

18
六月霜 12回■静観子
風月夢 32回■*上蒙人
拒約奇談 8章■中国涼血人
新西遊記 5回■陳景韓

19
神州光復志演義 上 1-59回■聽濤館主人(王雪庵)

20
神州光復志演義 下 60-120回■聽濤館主人(王雪庵)

(1998.7.16)




薛正興主編『李伯元全集』



薛正興主編『李伯元全集』全5冊
南京・江蘇古籍出版社1997.12


 中国で最初の『李伯元全集』が発行された。著名な清末小説作家ではあるが、これまで全集が編集されたことはない。よろこばしい。
 以下の構成となっている。

1 文明小史、中国現在記
2 官場現形記
3 活地獄、海天鴻雪記、庚子国変弾詞、醒世縁弾詞、経国美談
4 南亭筆記、南亭四話
5 (王学鈞)李伯元詩文集、李伯元年譜、李伯元研究資料篇目索引

 特筆すべきは、王学鈞編集になる第5巻だ。佚文、佚詩を広く収録し、詳細な年譜と研究論文目録を掲げる。李伯元研究の広さと深化をあますところなく伝える重要文献である。
(1998.6.26)




広智書局本「二十年目睹之怪現状」の発行年月日



 『呉熕l全集』全10冊(哈爾濱・北方文芸出版社1998.2)をながめていて、奇妙な記述にでくわした。「二十年目睹之怪現状」の広智書局本についてだ。そのうちの第4冊丁巻の発行年月が間違っている。
 いわく、「丁巻第46回から55回まで、戊巻第56回から65回は、いずれも同年(注:光緒三十二年<1906>)十二月に出版された」と。注目してほしい。第4冊(丁巻)、第5冊(戊巻)とも同じ光緒三十二年十二月の発行である(均同年十二月出版)と書いている。だが、これは事実ではない。
 原本丁巻の奥付には、「光緒三十二年十一月二日」とある。戊巻には、「光緒三十二年十二月十六日」と印刷されている。
 清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1。146頁)、樽本照雄編『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10。128頁)には、

  第四冊 光緒32.11.2(1906.12.17)
  第五冊 光緒32.12.16(1907.1.29)

と原本奥付にあるままを記述しておいた。
 調べてみると、阿英(1957)、魏紹昌(1980)、王俊年(1985)、盧叔度(1988)、裴效維(1998)の全員が、第4冊丁巻を光緒三十二年十二月発行と誤っている。中国で著名な研究者のすべてが誤記しているのだ。これは、驚いたというようなものではない。
 原物を見れば、間違いようがない発行年月日である。
 並べてみると、阿英の間違いを、全員が真似したように見える。
 まことに不可解な事実だといえよう。

(1998.5.15)

→「不要軽視小事」
→「文献をあつかう姿勢――『呉熕l全集』を例として」



李錫奇遺作「南亭回憶録」の発行



 李伯元を含んだ「李氏家譜」が作成中であることは、一部で知られている。このたび、その概要が明らかになったのでお知らせする。
 「李氏家譜」は、試行本が印刷された。が、誤り脱落が発見され修改作業が進められていた。資料を収集する過程で、李錫奇遺作「南亭回憶録」が発見される。それまで未完成、散逸したと伝えられていたものだ。
 李錫奇は、70歳をこえて「南亭回憶録」の編著に従事した。上下2冊、560枚、1961年に初稿を完成、3度原稿を改め、1964年に完成する。李錫奇は、原稿の保存を家族に命じ、1968年、79歳で永眠した。
 その「南亭回憶録」が発見されたのである。これには、李氏の起源などについて詳細に記されているという。原稿の記述により「李氏家譜」の内容を修改し、家譜印刷と同時に「南亭回憶録」も複写印刷することに決定した。
 「南亭回憶録」上下冊(各500部)、「李氏家譜」300部を印刷する。印刷には費用がかかるため、李氏家譜基金会を設立して募金する。(1998.4.6付「李氏家譜基金会」文書)
 興味あるニュースである。劉鉄雲関係者が、その資料集を編纂したり研究活動を継続しているのは比較的よく知られている。しかし、李伯元の親戚縁者が集まって出版活動を行なうなど、はじめて耳にする。
 問題といえば、李伯元の誕生日だ。李伯元の誕生日について、同治六年四月十八日(1967.5.21)と同年同月二十九日(6.1)があることを私は問題にしたことがある。前者は、呉熕lが書いており、後者は、魏紹昌が言いだした。
 どちらが正しいのか、その根拠を求めていた。李氏に伝わる家譜が存在していないか、と探しはじめて、それが存在していないことを知った。だからこそこのたび「李氏家譜」が、編纂印刷される。
 関係者から送られてきた複写に、李錫奇の「李伯元先生年表」の冒頭1頁がある。
 見れば、「一八六七清同治六年丁卯四月二十九日(陽暦六月一日)伯元誕生於山東」とある。
 新編「李氏家譜」は、これにもとづいて書かれるはずだ。「四月二十九日」説が、これから学界にも定着するだろう。しかし、呉熕l説が完全に否定されたわけではない。李錫奇が何にもとづいてそういうのか、いまだに不明のままだからだ。
(1998.5.10)


「清末」か「晩清」か



 「清末(しんまつ)」と「晩清(ばんしん)」が、並行して使われている。
 清末小説か晩清小説か。厳密な使い分けがあるのかどうか、知らない。私は、日本語の文脈においては、清朝末期をつづめた「清末」を使用する。音のひびきが、より好ましいという理由にほかならない。
 両者の使用例を見る。
 日本では、大高巌「清末の社会小説に就いて」(『同仁』第8巻第6号1934.6)とか、松井秀吉「小説に現れた清末官吏社会」(『満蒙』第15年第7号1934.7.1)が早い。中国の例は、阿英の「清末的商人小説」(寒峰名義『申報』自由談1935.7.24)また「清末文芸雑誌」(『太白』半月刊第2巻第10期1935.8.5)などがある。
 ところが阿英は、同時に晩清をも使用していてややこしい。晩清の方が、清末よりも多いが、併用していることにかわりはないのだ。
 「《゙海花》在晩清文学中之地位――紀念東亜病夫曾孟樸先生」(発表紙不明1935.10。『小説閑談』上海良友図書印刷公司1936.6.10所収)だとか、「晩清平妖伝」(同前)がその例である。
 雑誌『清末小説研究』の創刊を準備していたころのことだ。約20年前になる。
 雑誌名について中島利郎氏から、「晩清小説」という言葉が先人の使用例としてある、という指摘を受けた。阿英の『晩清小説史』などを念頭においての提言だったのだろう。前例に従う気にはならなかった。それならば、なおさら「清末小説」にしなければならない、と考えた。日本で独立して発行する研究雑誌なのだ。誌名にも独自性を打ち出したいという単純な考えだ。
 現在までの研究文献における使用の傾向をざっとながめる。印象にすぎないが、中国では、「晩清小説」が圧倒的に多い。一方、日本では「清末小説」の方が「晩清小説」に比較して多く使われる。もっとも、日本では、研究誌『清末小説』『清末小説から』においてせいぜい清末小説を使用しているから当たり前か。
(1998.4.18)


探求書――『和文漢読法』ほか



 日本で発行されていながら、日本で見ることのできない書籍、雑誌は少なくない。中国の研究者から、探索を催促されることがあるが、見つからない時は、お手上げなのである。『和文漢読法』がそのなかのひとつだ。

1 『和文漢読法』

 『和文漢読法』は、中国人が日本語書籍を読むための日本語入門書であるらしい。そのころ仮名がわからなかった梁啓超が、日本語のできた羅普とともに著述したというのだ*1。
 ある研究者は、該書はのちに「夏威夷遊記」と改題した、と書いている*2。意味がよくわからない。
 中国人のための日本語教科書を集めているのは、実藤文庫である。その目録を見ると、よく似た坪内雄蔵著、沙頌〓、張肇熊訳『和文漢訳読本』商務ママ書館印行(明治33(1900)年12月著、光緒二十七(1901)年九月訳)は、ある。しかし、梁啓超、羅普の『和文漢読法』は所蔵されていない。
 日本で編集出版された教科書関係の目録も見た。最後の手段で国会図書館にも問い合せてもらったが、「見当りませんでした」と回答があっただけだ。
 『和文漢読法』を探求している夏暁虹より、『清議報』第64冊(1900.11.22)に広告が載っていると複写をもらった。うたい文句に、数日で日本語の書籍が読めるようになる、という。また、清議報館が代理販売をする、ともあり『和文漢読法』は、確かに発行されていることがわかる。
 残念ながら、夏暁虹からの調査依頼にこたえることができないまま、現在にいたっている。もうしわけない。
 以下、梁啓超に関係する書籍、雑誌に言及しておく。

2 雑誌『新小説』

 研究者のなかで知らぬ人はいないくらいに有名な雑誌『新小説』である。梁啓超が、横浜において創刊した。今でこそ影印本が出版されていて本文を読むことができる。しかし、それ以前、日本で見ることができた原物は、創刊号と第7号の2冊にしかすぎなかった。では、現在はどうか。原物を所蔵する機関は、出現したのか。否定せざるをえない。広告ページを削除してしまった不完全な影印本で当分の間、がまんしなければならないだろう。

3 『十五小豪傑』

 ヴェルヌの翻訳にも梁啓超がからんでくる。
 「十五小豪傑」は、『新民叢報』にはじめ連載され、のちに(法)焦士威爾奴原著、飲冰子(梁啓超)、披髪生(羅普)合訳、横浜・新民社1903というかたちで単行本になった。
 劉鉄雲「壬寅日記」(1902)に、劉鉄雲が『十五小豪傑』を読み、題簽を書いたことが記述されている。この題簽は、梁啓超が劉鉄雲に求めたものだ、いや、劉鉄雲が『新民叢報』に連載されていたものを自分で装丁するために書いたものだ、という論争があった*3。
 このような意見の違いは、横浜で出版された『十五小豪傑』の原物を見れば、すぐに解決できる。単行本に劉鉄雲の書いた題簽があれば、梁啓超が劉鉄雲に依頼したものであろう。なければ、劉鉄雲が自分のために書いたものだ。ところが、この原物も、手にすることができない。問題が提起されてから時間がたった、もう見つけただろう、と中国人研究者にいわれたことがある。見当らないのだから返事のしようがない。
 しめくくりは、秋瑾関係である。

4 雑誌『白話』

 秋瑾主編で留日学生が組織した演説練習会が発行した雑誌という。その創刊号は1904年9月24日に発行され、第3期までの目録が郭延礼編『秋瑾研究資料』(済南・山東教育出版社1987.2。692-695頁)に収録されている。該雑誌は、第6期まで発行されているから、所蔵されるとすれば日本しかありえない、と中国の研究者は、いうのだ。可能性としてはそうかもしれない。しかし、さがしても見つからないことがあるのは、常のことなのだ。
 この場を利用して、ひろく情報の提供を呼びかけたい。ご存知のかたはいませんか。ご教示をお願いします。
(1998.3.27)

1)丁文江撰『梁任公先生年譜長編初稿』上冊 台湾・世界書局1972.8再版。86頁に「羅孝高任公軼事」から引用して『和文漢読法』を著作したと書かれている。
2)坂出祥伸「梁啓超著述編年初稿(一)」関西大学『文学論集』第27巻第4号1978(別刷りによる)。1899年の項目に次のようにある。「『和文漢読法』(羅孝高と共著)のち「夏威夷遊記」と改題」。29頁
3)「劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか」樽本『清末小説論集』法律文化社1992.2.20

「本館編印繍像小説縁起」




 「本館編印繍像小説縁起」は、『繍像小説』創刊号に掲載された発刊辞である。有名な文章であり、ほとんどの文学資料集には、収録されている。ゆえに、本文そのものは、簡単に読むことができる。ところが、原物の写真を見かけることがない。中国の研究者が、原本を求めて長らく入手できなかった、と聞いたことがある。『繍像小説』には後刷りのものがあり、どうやらそれには欠落しているらしい。「縁起」は、もともとが赤の色紙に印刷されており、紙そのものが破損しやすい。おまけに線装本だから、細い綴じ糸が切れてしまえば、それで紛失するのだろう。署名される「商務印書館主人」は、一般に李伯元のことだと考えられている。つまり、この「縁起」そのものが李伯元の文章だという。はたしてそれは事実なのか、問題のあるところだ。参考までに、ここに拙藏の「縁起」を掲げる。
(1998.3.17)

ダリのパン




 細長いフランス・パンを頭にかぶったダリの写真を思いだします。テレビで放映されたダリの映画で、自分自身がそうしていました。ニューヨークの美術館では、女性の彫像にも頭にフランス・パンです。それプラスにアリが描いてあります。
 バルセロナから北にむかい、特急で約1時間半のところにフィゲラスが存在していました。曇っていて、やや肌寒く、日曜日で開いている店はほとんどありません。それにもかかわらず観光客がある方向に向かって歩いて行きます。そこにあるのがダリ美術館です。大きな卵がいくつも屋根というか壁のてっぺんに並べられている写真を見た方は多いかと思います。赤い壁に黄色の造形物がくっついているを自分の目で確かめました。ガイド・ブックにはそういう説明はないのです。つぼみのような土器のような、それとも何かの木の実なのか。
 昼食時で中庭にある「インペリアル」というレストランで食事をしました。ハムの盛り合わせ山盛り1皿、ステーキじゃがいも野菜添え1皿についてきたのがパンです。カゴにはいっているパンこそ、あの壁にくっつけられたパンにほかなりません(写真右の上方左右に1個づつ)。
 なんでもなさそうなパンを普通の赤い壁に配置する。普通プラス普通が、すなわち異様となる。これこそダリの技法なのだ、と私は理解したのです。
(1998.3.4)

「清末民初小説書系」の発行



 于潤J主編「清末民初小説書系」10巻12冊(北京・中国文聯出版公司1997.7.20)を入手した。書名のとおり、清末から民初にかけて発表された小説集である。ただし、短篇が中心で、一部の翻訳を除いて、ほとんどが創作小説だ。分野別に編集されている。警世、武侠、言情2冊、滑稽、社会2冊、科学、偵探、倫理、家庭、愛国と題され、831件の小説を収録する。
 于潤Jが把握している統計では、1872年から1919年五四前の小説は、2万種に近いという。そのうち翻訳は、約3,200種で残りが創作16,000種だ(「我国清末民初小的短篇小説(代序)」1頁)。にわかには信じがたい。なぜなら、『新編清末民初小説目録』にもとづいて小説の種類を数えたことがあり、それとの差が大きいからである。私が把握している資料では、創作は約7,500種、翻訳が約2,500種の合計約1万種だ。目録全体でも、つまり、現在までの再版、復刻のすべてを含んで総収録数は、約16,000件(創作11,000件、翻訳5,000件)である。私の『新編清末民初小説目録』は、小説を網羅するのが目的である。しかし、それを実現しているという自信はない。だから、于潤Jの示す数字には興味がある。私の知らない資料が、まだ、大量にあることを示唆している。
 たとえば、『新編清末民初小説目録』作成時に採取できなかった作品が「清末民初小説書系」にどれくらいあるのか見てみよう。75件ある。それらの掲載誌(紙)をあげると、『新鮮滋味之十種』(刊年不記)、『愛国白話報』(1919)、『申報図画』(1910)、『北京愛国報』(1909)、『京話日報』(1919)、『小説之覇王』(1919)、『南開思潮』第5期(刊年不記)、『小説六則』(1910)、『建設』(1919)、『愛国英雄』(刊年不記)などとなる。
 単純な計算をしてみる。「清末民初小説書系」に収録された作品831種のうち75種が私にとって未知の作品だ。つまり、9%である。それを于潤Jがいう全体の2万種にあてはめると、9%であるから1,800種となる。可能性としては、あくまでも単純計算であることを念頭において、『新編清末民初小説目録』に収録できそうなものがあと1,800種くらい存在することになる。
 ただし、可能性としての1,800種は、うえの未収録掲載誌(紙)を見てもらうとわかるが、民国以降の刊行物に掲載されている確率が高い。中国でこれまで編集発行された各種目録のうち清末の刊行物については、私は、できる限り収集に努めた。取りこぼしは、少ないと考えている。手薄であるとすれば民国発行の刊行物であろう。
 中国大陸の編集物には、今後とも目が離せない。
(1998.2.6)

『清末民初小説年表』の構想


 清朝末期から民国初期にかけてどのような小説が発表されたのか、全体を眺めてみたい。時間の流れにそって作品をたどってみたい、というのが始まりである。その手掛かりとなるのが小説年表だ。
 今まで年表類が発表されなかったわけでは決してない。中国では「大事記」の一部としていく種類も発行されている。ただし、私の見るところ、それほど詳細なものではない。
 清末が雑誌時代の始まりであるからには、雑誌初出の小説を網羅した年表がなければおかしい。創作と翻訳を見開きで一覧できるようにする。『新編清末民初小説目録』に収録した小説群を発行順に配列すれば、それに近いものができるという構想である。ざっと計算して、年表本体で約400頁、それに作品、著訳者索引をつけ、600頁におさめるのが目標だ。
(1998.1.1)

北京のタクシー


 中国語の教科書では、タクシーは、「出租汽車」と表わすのが普通話である。最近は、香港、広東からの語彙として「的士」が流行しているらしい。タクシーに乗る、を「打的」と表現している教科書が日本で出現するくらいだ。
 北京空港から前門飯店まで、タクシーを利用した。空港ロビーで客引きをしている運転手は無視してタクシー乗り場で列にならぶ。愛想のいい運転手で、ホテルまで約40分くらいかかっただろうか。250元(日本円3,7500円)である。高いような気もしたが、久しぶりの北京だし、上海とは事情が異なるのだろうと考えた。メーターにそう出ているのだから疑いようがない。
 数日後、北京をたつとき、同じ道を上海フォルクスワーゲン製サンタナ新型で空港まで乗った。この料金が140元(日本円2,100円)である。あれッ、同じ距離、同じ時間であるにもかかわらず110元もの開きがある。どういうカラクリか理解できないでいた。
 同じ飛行機に乗り合わせた年上の知人と話していて疑問が氷解した。
 近ごろ、タクシーと外国人とのトラブルが増加しているらしい。高額な料金をふっかけるのだそうだ。
 遠回りする、夜間、人気のないところで下ろすと威す、メーターを倒さない、昼間なのに夜間料金メーターにする、などなど、手がこむものもある。
 外国人とみてメーターに細工したらしい。そうでなければ250元にもならないだろう。
 「お前は外国人か?本当に日本人なのだな?」と運転手は、しつこいくらいにたずねた。私の中国語がうまいわけではなく、下心があったのだ。
 知人がいうには、対抗措置として一番効果的なのは、消費者協会に通知するのだという。該当者はクビになるのを恐れていると聞かされた。
 そういえば、タクシーに名刺大のカードが束ねてあったのを思い出した。それに連絡先が書かれているらしい。らしい、というのは、ギチギチに詰め込んであり、1枚も抜き出すことができなかったからだ。抜こうと努力している姿を見た運転手は、「そんなもん、役には立たん」と言っていたが、客には手渡したくないカードであるとわかった。
 次に北京でタクシーに乗るときは、まず、領収書を発行するよう要求し、その連絡カードを忘れずに入手しようと決めたのだ。
 昔の北京ではなくなったのか、あるいは地金がでてきたのか、資本主義はどこも同じなのか。
 ますます中国がおもしろい。
(1997.11.11)

最近の北京


 海外旅行でペテンに会うのは、めずらしいことではないだろう。
 だが、最近の程度の悪さをみるにつけ、20年前のあの正直な中国の人々はどこにいったのか、という疑問も抱くのだ。
 北京の前門飯店に宿泊し、3度目の万里の長城見学をすることにした。フロントでバスツアーを予約する。入場料、昼食付きで一人280元は、それほど高くはない。
 アメリカ人、ドイツ人、イタリア人の合計8人グループである。明の十三陵から見学するというのは、普通と順序が逆だが、これはかまわない。
 ところが、近くにある石の彫像を見るのには一人50元を余計に支払えと中国人ガイドはいう。万里の長城と明の十三陵ツアーだから、たしかに「神道」は別かもしれない。それなら、出発前にいってくれ。車のなかで料金を徴収するのがあやしい。
 ガイドと運転手の小遣いになったのだと思う。
 このガイドは、八達嶺に行く前に市内の別ホテルに遠回りする、人気のない万里の長城に案内する、待ち合わせ場所を確認しない、自分の都合がいいからと途中で帰宅する、とまるで仕事をする気の見えない人だった。運転手は運転手で、しょっちゅう携帯電話を使用し、事故を起こすのではないかとこちらはハラハラした。
 多くの人がいるうちの一握りだということを知ったうえで、一事が万事ということもあるというのだ。
 どこか大事な部分が腐りかけているのではないかと思わせる事態だといいたい。いや、はじめから腐っています、というのであれば、妙に納得。

(1997.10.8)

仏 手



福建省武夷山の茶園にて


 奇妙なお茶を見た。まるで巻き貝である。黒ぐろとした色で太いものは小指の大きさがある。
 福建省武夷山は、日本では茶の名所として知られる。ここが奇岩の観光地であることは、行ってみてはじめて知ったことだ。竹の筏での川下りもある。
 仏さんの拳(という名称だという)を1個に熱湯をかける。これで10人くらいの飲み量か。杯でなめる、といったほうがいい。無色無臭で口の中に苦みが広がる。ウーロン茶ではなく、まして緑茶でもない。今まで味わったことがない。
 1両(50グラム)が180元(約2700円)という高価な値段というのもはじめてだ。お茶の世界は、奥が深い、という当たり前の言葉しかでてこない。
(1997.7.30)

予 告


『新編清末民初小説目録』


 本年9月に『新編清末民初小説目録』を発行いたします。
 B5判、約1千頁 限定200部 定価:本体33,981円+税

『新編清末民初小説目録』の特色

1.清末民初に発表された創作小説、翻訳小説を網羅しました。本目録の総収録数は、16,046件(創作11,074件、翻訳4,972件)です。
2.作品名のABC順に配列していますから、検索に便利です。
3.雑誌初出から、のちの単行本、さらに最近の復刻も収録しています。
4.作品集、全集、叢書に収められた作品は、分解しました。個々の作品名から検索することができます。
5.翻訳小説には、原作名、原著者名など、判明しているものは、すべて注記しました。
6.目録類等の二次資料に拠っている場合、その主な典拠資料名を作品ごとに明記しています。
7.著訳編者索引により、人名からの検索が容易です。

 ご期待ください。
(1997.7.9)

阿英目録の位置


阿英目録の収録率


 上にかかげた円グラフをご覧いただきたい。阿英「晩清小説目」に収録された小説を数え、それが当時発表された作品のうちのどれくらいを収録しているかを調査した結果である。
 比較の基礎に用いた目録は、『新編清末民初小説目録』だ。各種二次資料をも使用して清末から民初にかけての小説のほとんどを網羅した。日本はもちろんのこと、中国でもこれほど詳細な小説目録は、出版されたことがない。
 阿英「晩清小説目」を『新編清末民初小説目録』で検討すれば、その収録範囲は、わずかに38パーセントにすぎないことがわかった。1950年代に発行された阿英目録は、すでにその使命を終わっているということができよう。
(1997.6.28)

群治のヒミツ


『新小説』初出


 梁啓超の小説論で有名なのが、この「論小説与群治之関係」である。超有名なのだが、「群治」ということばは、日本でさまざまに理解されている。社会、社会生活、デモクラシー、政治、社会政策、大衆支配、共和政治、民主政体などなど。最近では、政治と翻訳されることが多い。
 梁啓超の使用した群治の例を調べた結果の私の結論。群治は、社会以外のなにものでもない。群治を政治と翻訳し、そう理解するのは間違いである。
 誰でもが知ってはいるが、多くの研究者が間違っていた、という典型的な例だということができる。
(1997.5.24)

京都はいつも新しい


大阪のよう?


 上の看板は、全国的に有名な大阪の店と同じもの。ただし、これは京都の三条にある。あの京都に、あれまあ、と思われるかもしれない。しかし、平安神宮の赤い鳥居も、清水の舞台も自然を切り開いて建築されている。見慣れただけで、最初は違和感を持った人も多いはずだ。文字型に火をつける五山の送り火も、その場所には、木を植えないようにしてある。
 新京都駅は、本年秋に完成するらしい。あれは、羅生門のように屹立させてほしかった。京都駅前のローソクを見るたびに、ああ、京都に着いたとホッとする。
 もともと京都人は新し物好きではないかと思うのだ。(私は京都人ではありません。念のため)
(1997.5.2)

これが清末の翻訳だ


トルストイの肖像写真


 『托氏宗教小説』は、京都の本屋で発掘した。20年近く前のことだ。
 トルストイの宗教小説が、原作だ。それが英語に翻訳されており、その英訳本に基づき、ドイツ人伝教師REV.I.GENHR(葉道勝)が中国語に翻訳する。発行は、香港RHENISH MISSIONARY SOCIETY(1907)、印刷は、日本横浜である。
 ロシア、イギリス、ドイツ、香港、日本と、文字通り世界のネットワークで結ばれた出版物だということができる。清末とは、そんな時代だった。
 本書こそ、世界の中の清末翻訳小説を象徴する存在のひとつだと思うのだ。(1997.3.30)

小説名画大観


挿し絵が当時の雑誌の雰囲気をつたえる


 『中国近代文学大系』史料索引集1、2によって『清末民初小説目録』の増補が終わったばかりだ。約1,000件を追加した。索引を作りはじめる。そんな時に書店の目録に目がとまる。
 『小説名画大観』(北京・書目文献出版社1996.7)全3冊影印本である。印刷数、わずかに500部だ。奥付には中華民国5年10月初版とある。まさに『清末民初小説目録』の守備範囲だといえよう。『小説大観』『中華小説界』などの雑誌に掲載された小説を再録した叢書だ。今までの目録類に見ない書籍だから貴重である。索引作成作業を中断し、早速、目録に追加をする。結局、270件を補うことができた。
 該書には、北京図書館蔵珍本小説叢刊と書かれている。ほかの「珍本」も出版される可能性がある。大いに楽しみだ。
 『清末民初小説目録』は、こんどこそ総データ1万7,000件で作業を終了する。(1997.3.9)

採 点 表


本文内容とは関係のないバリ島の風景1枚。


 『中国近代文学大系』史料索引集1、2(魏紹昌主編 上海書店1996.3/1996.7)は、2冊で合計約2,600頁にのぼる資料集だ。ページをめくるだけでも時間がかかった。
 なにも知らなければ、その量に圧倒されて賞賛する可能性がある。そんな人が出現するかもしれない。もっとも、資料集を書評するひとは多くはないが。
 私の準備した書評原稿は、長くなった。『清末小説から』に掲載するが、その予定は、7月、分載すれば10月完結となる。
 ここで、いちはやく結論部分だけでも紹介しよう。○△×の順だ。便宜的に数字をつけた。

1.管林、鍾賢培、陳永標、謝飄方、汪松濤「中国近代文学大事記」(1840-1919)
 評価:△ 年表。誤りが少なからずある。私の評価は△だ。
2.関愛和、王広西、袁凱声「中国近代文学思潮、流派、社団簡介」
 評価:△ 附録に文献目録があるのはいい。しかし、掲載誌、発表年月を明記していない。ゆえに△となる。
3.祝均宙、黄培R「中国近代文芸報刊概覧」(一、二)
 評価:△ 雑誌目録および定期刊行物の紹介をしている。珍しい史料をつけくわえていて貴重だ。原物を手にして作成しているにもかかわらず、雑誌本文の記述によらず目次ですませている箇所がある。目次と本文に異同があるのは、よく見かける現象で、注意を要するのは基本なのだ。書誌情報が不十分である部分もあり、厳しいかもしれないが、残念ながら△だ。
4.裴效維、張頤青「中国近代文学研究資料篇目索引」(1840-1990)
  樽本照雄「清末民初小説研究目録――日本、その他の国篇」
 評価:○ これさえ見れば、1990年までの研究情況を理解する手掛かりになる。便利であり有用であることをいくら強調してもしすぎることがない。◎をつけたいくらいのものだ。
5.作家年譜、小伝
 評価:△ 小伝は、各集にそれぞれ分散して書かれているものもある。しかし、一部の作家しか実現していない。史料索引集としてまとまったものがあってもよかったのではないか。
6.創作、翻訳編目
 評価:× 作成を計画されてはいた。結局、実現されなかった。史料索引集としての評価は、×だ。が、だいじょうぶ。私が編集する『新編清末民初小説目録』がこの穴を埋めるだろう。

 全体を評価すれば、半歩前進だ。ここは、「前進」に重点があることに注目してほしい。私にしてみれば、極めて高い評価となった。
 (1997.2.16)

史料索引集がすごい


2冊です。この厚さ。圧倒的で本格的。


 『中国近代文学大系』全30巻が完結した。最後の2冊は史料索引集である。
 清末民初を範囲におさめた本格的文学史料の編集発行は、おそらくはじめてではなかろうか。
 年表、流派紹介、定期刊行物概覧、論文目録という構成になっている。中国国内の研究論文ばかりではなく、日本など諸外国の論文目録が収録されているのは、まさに国境を越えた現代の研究状況を反映しているといえるだろう。
 これだけ力のこもった史料索引集だ。私も渾身の力をいれて書評をする。ご期待あれ。(1997.1.31)

ザカンは痛い?


豚足のカレー煮を金字塔にしたもの。食事がおいしいのもバリ島の特徴……


 104歳のお祖母さんは、老人介護ということで老人ホーム住まいだ。相部屋で、まわりはみんな80歳代の女性である。
 見舞いに来た孫娘(しつこいようですが、すでに50歳近い)に身体の不調を訴える。
 「近ごろ、ヒザが痛うて」
 「フンフン。ヒザぐらい、しゃーない」
 「こんなにヒザが痛うては、座棺に入る時、痛いんちゃうやろか?」
 グニョッ。
 「座棺(ざかん)」は、すでに死語になっていると思われるので説明しよう。棺桶の種類で、死者の膝を折って脚を抱かせた格好で納棺する。火葬ではなくてそのまま土中に埋める土葬時代のもの。時代劇で樽のようなものを担いでチャンバラをするのがあったが、あれが座棺である(知っている人はいないか?!)。
 やさしく慰めるところが、やはり孫娘だ。
 「おばあちゃん、だいじょうぶ」
 「ヘエ」
 「今の棺桶は、寝たまま入れるから、痛うないんよぉ」
 ドワーッ。
 慰めになってぇへんがな。
 それまでおばあちゃんと孫娘の話をニコニコして聞いていたまわりの女性たちは、座棺やら寝棺(ねかん)やら棺桶の話題になったとたんに凍ってしまっていた。
 そりゃそうでしょう。老人ばかりの部屋で、棺桶の話をするとも思えない。

(1997.1.19)

 (登場する人物は、すべて事実です。フィクションではありません)

長生き、でけるかいなぁ?


ハワイではありません。バリ島の西海岸です。フェンス越しに白い波が……


 最近、息子を病気で亡くしたお祖母さんは、104歳だ(今年で105歳!)。
 家族だけでは目が行届かなくなり、一応健康だが老人ホームに入院した。老人介護というものである。
 意識がはっきりしており、シーツ交換には、手早く身体の位置を変えるなどして協力する。介護人たちには評判がよろしい。
 家にいる時とは、勝手が違うのは、しかたがない。ただ、いちばんの不満が老人ホームの食事だ。
 「家にいたときは、お嫁さんが魚を料理してくれたのに、ここは、ちょっと食事が……」
 見舞いに行った孫(といってもすでに50歳近い)に愚痴がでる。
 「こんなんでは、長生きでけへんのやないやろか?」
 ズズーッ。コテッ。
 「おばあちゃん、もう、充分長生きしてるよ!」
 言う方もいうほうだ。
 「そうやろか」
 ズズズーッ。ガックン。
 どうも本人は、納得していないらしい。
 いつまでも気持ちは、若い。
(1997.1.10)

 (登場する人物は、すべて事実です。フィクションではありません)

炭火焼き肉から自転車


 かんてき(関東では七輪)で焼き肉というのは、肉そのもののうまさがにじみ出てくる感じで好きだ。衣服にニオイがつくのがちょっと難点か。
 ソウルで骨付きカルビをおごってもらったことがある。これは高級です、とすすめられたのはいい。しかし、日本でいうジンギスカン鍋(丸帽子の形をしてスジが入ったもの)にドバッとばかりに注ぎ込み、一度に焼いてしまったのには呆然とした。少しずつ、焼きすぎないように、焦がさないで、赤い部分が残っている状態で、柔らかいうちに食べたい、という願望は無残に打ち砕かれたのだ。
 その点、日本式に好き勝手に焼くのは好きだな、とこれは大阪鶴橋の店のものである。
 ソウルの町は坂が多い。自転車に乗っている人を見かけたことがない。坂が要因であることのほかに、韓国人は自転車が嫌いだとなにかで読んだことがある。本当だろうか。
 今から20数年前、九竜の沙田には、何もなかった。何もないのになぜ行ったかというと、鉄道に乗ってみたかっただけで、別に理由はない。ただの原っぱがある。目に飛び込んできたのは、子どもばかりか大人までが自転車に乗ってよろよろと遊んでいる風景だ。よく観察すると、どうやら貸し自転車屋らしい。坂と自動車の香港では、自転車に乗るのは危険だ。商売として成り立っているのがわかった気がした。
 昨年の正月、その沙田のすぐ近くにある香港中文大学で国際学会が開催された。夜は自由だったから、電車に変わった車両に乗って九竜駅まで出てみることにする。風景は一変し、原っぱどころか高層マンションが文字通り林立しているのに驚く。20年の歳月は伊達ではなかった。
 目をこらすと、マンションの間に自転車屋があるではないか。ここでもボーゼン。(1997.1.5)

神様がいっぱい



 通りに一歩足を踏み出すと、そこは物売りの世界である。
 顔を見ると、タクシー、トランスポート(散歩してます)、ボウシ(太陽光線で焼けたのはいりません)、時計(カシオで充分)、ヤスイョ……と声がかかる。キノコ、という一言もある。バリ特産のものがあるのかも知れない。断ってもニコニコとして、そういう性格なのか慣れているのか。
 竹のようなもので編んだ小さな器に、花、食物を入れて通り道に供えてある。道のみならず出入り口、お寺などどこにでも置いてあるのだ。それも毎日、新しくなっている。古くなったものも回収しないで、そのまま置いてある。ちょっときたない。
 銀色に輝く5人の子どもは、言い伝えがあるのだろう。木彫で、別のところでも見かけた。毎朝、この子らと食事をしたのだった。(1996.12.31)

デンパサールの市場にて


 ダイジョウブ、ダイジョウブヨ。
 何が、だいじょうぶなのか、よくわからん。コッチ、だとも言うのだ。どんどんと人を押し分けて奥に歩いていく。合いの手のように、ダイジョウブと声を絶え間なくかけてくる。少女に引きずられるようにして足が声の方角に向いてしまう。私の顔が笑みで凍りつく。困った時や、怒りを感じると私の顔には、意志とは反対に笑みが浮かぶのだ。
 ドリアンは、あるにはあったが、小ぶりで、少し味見するわけにはいかない。切り分けてあるわけではない。
 となりにザックリと割ってあるのは、バリ・ドリアンといい、香りはきつくなく、そこそこの味がするらしい。
 バリ・ドリアンは、細かいトゲの表皮を割ったなかにある細長い種のまわりを食べる。プニョプニョとたよりない果肉で表面がツルンとした、かすかに足の指の間にたまった垢の香りがする。ふーん。
 ワタシ、まてサンネ、17サイ、ちっぷ千円、ちっぷ千円。
 勝手に寄ってきてチップとは、なんであろうか。おまけに千円の部分が漢字なのがますますメンヨウである。
 というわけで、1,000ルピア(日本円で50円)にてかんべんしてもらったのである。 (1996.12.25)

第6回蘆北賞受賞式写真



 過日お知らせいたしました第6回蘆北賞受賞の記念写真をごらんにいれましょう。財団関係者だけの親密な会合でした。写真中央の女性が橋本循夫人のゑん氏です。94歳だと聞きました。
 お名前だけはうかがっていた高名な先生方ばかりで、恐縮したことです。財団の名前となっている橋本循の受業者も参加されておりましたが、古典文学研究者が主でありましたので、私には面識がありません。式次第に古典戯曲研究で有名な岩城秀夫氏の名前があがっていました。紹介された人こそそうであろうと、「岩城先生……」と声が出てしまいましたが、「こちらは白川静先生です」といわれ、赤面したのでした。この方が、あの『字通』『字訓』『字統』辞書3部作でも有名な学者かと、思ったのです。平凡社は、この辞書で財政的に持ち直し、社員には感謝されておるよ、などと興味深い話もうかがいました。
 この集合写真をながめて、なるほど写っている人物だけが興味を持つ種類の写真であることをいまさらながら理解したのです。(1996.12.13)


第6回蘆北賞受賞



 本誌『清末小説』が第6回蘆北賞を受賞した。該賞は、財団法人橋本循記念会が中国文学研究助成の目的で設置したもので、その学術誌部門に該当する。
 長年の研究活動がその受賞理由だ。おおいに喜んでいる。来年は『清末小説』第20号を発行する。今まで以上に精進努力したい。(1996.11.21)


『清末民初小説目録』の増補改訂作業


 『清末民初小説目録』の増補改訂作業は、はじめてからすでに8年が経過している。このたびの作業は、主として典拠資料を明示することになった。原資料にさかのぼることができれば、それだけ資料として利用しやすくなるからだ。原物を見ることができない小説については、目録などの第2次資料によって補った。旧版にくらべてその収録件数は約1.4倍にふくれあがっている。本目録の特色のひとつは、作品名で配列していることだ。作品集であれば、個々の作品を抽出して掲げた。作品の題名を手がかりに、その初出から最近の復刻までの発行状況を把握することができるようにしたのだ。現在、作業は、ほぼ終了している。印刷できるかたちにデータを整理し、索引についても試作してみた。1.4倍の作品数増加であるが、二段組みにするなどの工夫をすれば、A5判にして旧版と同じ千ページちょっとで収まりそうだ。1996.11.5




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