樽本照雄研究論文目録
+01=『清末小説閑談』所収
+02=『清末小説きまぐれ通信』所収
+03=『清末小説論集』所収
+04=『清末小説探索』所収
+05=『初期商務印書館研究』所収
+08=『清末小説叢考』所収
+09=『初期商務印書館研究(増補版)』所収
+10=『清末小説研究論』所収
+11=『漢訳アラビアン・ナイト論集』所収
+12=中国語『清末小説研究集稿』所収
+13=『漢訳ホームズ論集』所収
+14=『商務印書館研究論集』所収
+15=『清末翻訳小説論集』所収
+16=『林紓冤罪事件簿』所収
+17=『林紓研究論集』所収
+18『初期商務印書館研究(増補版)』
+19『商務印書館研究論集(増補版)』
+20『林紓冤罪事件簿(統合増補版)』
+21『清末翻訳小説論集(増補版)』
+22『漢訳アラビアン・ナイト論集(増補版)』
+23『清末小説二談』
#01『清末民初小説目録』
#02『新編清末民初小説目録』
#05『新編増補清末民初小説目録』
#16『清末民初小説目録 第4版』
#17『清末民初小説目録 第5版』
#18『清末民初小説目録 第6版』
#19『清末民初小説目録X』
#20『清末民初小説目録X2』
19710101
+01執念の人――老残遊記の作者劉鶚について
樽本照雄 『野草』第2号 中国文芸研究会1971.1.15
13-31頁。清末の作品「老残遊記」の著者・劉鉄雲の生涯については、日本では知られることが少ない。特に、劉鉄雲の信奉した太谷学派の思想について記述するのは、日本を含めてほとんどなかったことだ。太谷学派の思想を実現するのが劉鉄雲の一生であったことを述べる。
19710102
清末小説理論について
五四文学研究グループ(樽本照雄執筆) 『野草』第2号 中国文芸研究会1971.1.15
49-57頁。
19730501
+01繍像小説総目録――附解題,著者名索引・作品名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第93号 大阪経大学会1973.5.15
75-131頁。清末に発行された小説専門雑誌であるが、日本で完揃いの存在を聞かない『繍像小説』の総目録である。後、影印本が出版された。ただし、表紙が原物と異なり、広告ページを削除する不完全本である。
19740101
+01劉鉄雲と老残遊記
樽本照雄 『大阪経大論集』第97号 大阪経大学会1974.1.15
50-75頁。劉鉄雲は、医者として行動し、鉄道敷設を提言し、鉱山開発に関わり、義和団事件のおりには難民救済活動をするなど多彩な生涯を送った。しかし、その小説には、失敗の経歴は書き込まれていない。唯一成功したと考えられる彼の黄河治水と「老残遊記」の関係を考察する。本論は、中国語訳された。
19740701
月月小説総目録(上)――附著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第100号 大阪経大学会1974.7.15
181-202頁。清末に発行された小説専門雑誌『月月小説』の総目録である。
19741101
小説林・競立社小説月報総目録――附著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第102号 大阪経大学会1974.11.15
89-115頁。清末に発行された小説専門雑誌『小説林』と『競立社小説月報』の総目録である。
19750501
月月小説総目録(下)――附総合著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第105号 大阪経大学会1975.5.15
133-161頁。清末に発行された小説専門雑誌『月月小説』後半部のマイクロフルムをアメリカから購入し、総目録を作成した。
19750601
+01劉鉄雲と友人たち
樽本照雄 『野草』第17号 中国文芸研究会1975.6.1
57-74頁。劉鉄雲と交際のあった日本人、とくに内藤湖南との関わりを、湖南の日記を資料にして記述する。清末中国文人と日本人の交流研究の一部分を構成する。単行本収録時に「劉鉄雲とその友人たち」に改題。
19750701
小説時報総目録――附著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第106号 大阪経大学会1975.7.15
121-156頁。清末に発行された小説専門雑誌『小説時報』の総目録である。阿英は、清末に発行された小説専門雑誌について解説しているが、『小説時報』は未見としている。
19751201
+01老残遊記外編は偽作か
樽本照雄 『瘉』第5号 瘉之会1975.12.31
1-13頁。「老残遊記」外編は、偽作だとする説が以前から一部で提出されている。その代表である太田辰夫説に反論をしながら、『文飯小品』掲載の文章を詳細に検討し、偽作ではなく劉鉄雲の筆になるものだと結論する。
19760301
+01『老残遊記』の版本と修改について
樽本照雄 『大阪経大論集』第109・110合併号 大阪経大学会1976.3.15
275-294頁。「老残遊記」の各種版本を対照し、本文の修改をあとづけ、信頼できる本文を特定する。版本研究は、1976年当時、清末小説については行なわれていなかった。
19760401
+01天津日日新聞版『老残遊記二集』について
樽本照雄 『野草』第18号 中国文芸研究会1976.4.30
95-104頁。中国で失われてしまった「老残遊記」二集を京都大学人文科学研究所で発見した。天津日日新聞に掲載されたものを切り抜いた貴重本である。掲載の日付を確認し発表年を特定する。本版本の発見は、二集の発表年月が1907年であると特定できたばかりではなかった。二集が1907年発表だとすると新しい問題が出現する。従来は、二集原稿は1905年に書かれたと考えられてきた。しかし、1905年の原稿は、『繍像小説』連載中に没書となった11回分であることに思い至るのは必然である。本稿は、中国語訳された。
19760501
小説月報総目録1――改革以前部分(創刊号−第11巻第12号)
樽本照雄 『大阪経大論集』第111号 大阪経大学会1976.5.17
129-172頁。清末に発行された小説専門雑誌『小説月報』の総目録である。
19760701
小説月報総目録2――改革以前部分(創刊号−第11巻第12号)
樽本照雄 『大阪経大論集』第112号 大阪経大学会1976.7.15
169-216頁。清末に発行された小説専門雑誌『小説月報』の総目録である。
19760901
小説月報総目録3――改革以前部分(創刊号−第11巻第12号)
樽本照雄 『大阪経大論集』第113号 大阪経大学会1976.9.15
99-139頁。清末に発行された小説専門雑誌『小説月報』の総目録である。
19770801
+10幻の雑誌『新小説』
樽本照雄 『野草』第20号 中国文芸研究会1977.8.1
119-124頁。言及されることの多い雑誌『新小説』だが、実際に読むことは困難である。日本とアメリカの図書館に所蔵される『新小説』は、全24冊のうち4冊しかないことを述べる。現在は影印本が出版されているので便利になった。その便利以前の実情である。
19771001
+01『老残遊記』試論
樽本照雄 『清末小説研究』第1号 清末小説研究会1977.10.1
27-40頁。劉鉄雲の思想とその作品「老残遊記」の関係を探求する。作品の舞台は1891年に設定されている。これは劉鉄雲の黄河治水と無関係ではないことを述べる。本論は、中国語訳された。
19771002
劉鉄雲研究資料目録
清末小説研究会 『清末小説研究』第1号 清末小説研究会1977.10.1
87-111頁。劉鉄雲関係の資料を、版本、研究論文などに分類し網羅した。
19771101
+01胡適は『老残遊記』をどう読んだか
樽本照雄 『大阪経大論集』第120号 大阪経大学会1977.11.15
141-156頁。思想的に中国大陸では批判される胡適だが、その「老残遊記」研究は、まず劉鉄雲の経歴を羅振玉の文章から発掘した功績がある。銭玄同らの批判を認めているかのようだが、なしくずしに、胡適自らの主張である白話文の成功例として「老残遊記」を引きあいにだしたのではないかというのが結論である。本論は、中国語訳された。
19771102
+03版本のこと――『鄰女語』を例として
樽本照雄 『〓唖』第9号 〓唖之会1977.11.30
31-36頁。阿英が「鄰女語」を復刻した時、義和団の暴力についてはその部分を削除していることを指摘する。後世いくら政治的な評価が変化したとはいえ、その種の行為は文学研究にとって悪影響をおよぼすことをいう。
19780701
+01目録って何だ
樽本照雄 『大阪経大論集』第124号 大阪経大学会1978.7.15
161-184頁。阿英が編集した小説目録を資料とし、発行年順に発行点数を集計する。それをグラフに表わし、清末に発行された小説を量的に把握しようとするもの。
19780801
+01ノート・曾孟樸の周辺
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第15・16号 中国文芸研究会1978.8.1
3-8頁。
19781001
+01曾孟樸の青春
樽本照雄 『清末小説研究』第2号 清末小説研究会1978.10.31
60-74頁。「〓海花」の作者である曾孟樸の生涯を探求する。特に後年の作品である「魯男子」は、言及されることは少ない。しかし、これは彼の青春時代を再構成する場合、最良の材料となるのだ。
19781002
+10曾虚白氏のこと
樽本照雄 『清末小説研究』第2号 清末小説研究会1978.10.31
75-77頁
19781003
曾孟樸研究資料目録
清末小説研究会 『清末小説研究』第2号 清末小説研究会1978.10.31
78-113頁。曾孟樸関係の資料を版本、研究論文などに分類し網羅した。
19781202
+10魏紹昌編『〓海花資料』について
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第17号 中国文芸研究会1978.12.31
3-7頁。当時、日本で目にすることができなかった『〓海花資料』について、その収録論文などについて評価する。
19790201
+10魏紹昌氏の李伯元に関する2編の論文
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第18号 中国文芸研究会1979.2.27
7-9頁。
19791201
+01金港堂・商務印書館・繍像小説
樽本照雄 『清末小説研究』第3号 清末小説研究会1979.12.1
74-113頁。上海の商務印書館は、日本の金港堂と10年間にわたり合弁企業であった事実を明らかにする。長尾雨山がなぜ高等師範の教授を辞めて上海の商務印書館編訳所に勤務するようになったのか。長尾が日本で発生した教科書疑獄に連座した事実を発掘する。
19800102
+01呉趼人「還我魂霊記」の発見
樽本照雄 『大阪経大論集』第133号 大阪経大学会1980.1.18
179-186頁。中国で長らく不明であった呉趼人著「還我魂霊記」が新聞に掲載されていたことを魏紹昌氏より知らされた。魯迅の言及で有名な文章だが、文章名は魯迅の記述が誤っていること、呉趼人が薬の広告を書いたいきさつなどを述べる。
19800201
+01『老残遊記』の原稿
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第22号 中国文芸研究会1980.2.4
3-6頁。現存する「老残遊記」の原稿は、出版社に渡されたものなのか、それとも下書きであったのか。原稿の存在について言及されることはあった。しかし、一歩進めて原稿の内容を検討した論文は、ない。書かれた情況をにらみながら、それが下書き手稿であることを論証する。
19800501
+10翻訳に訳者の姿勢が見える――阿英『晩清小説史』の翻訳を読む
樽本照雄 『野草』第25号 中国文芸研究会1980.5.1
23-32頁。阿英『晩清小説史』の翻訳3種についてそれぞれの特徴を述べる。
19800504
『人民文学総目録・著者名索引』
中国文芸研究会編 采華書林1980.5.1
『人民文学』の創刊から「文革」で停刊するまでの全冊の目録。共同作業のため本人担当部分は抽出不可能。
19800701
+10『新小説彙編』のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第24号 中国文芸研究会1980.7.28
5-9頁。『新小説彙編』とは、『新小説』の各作品を分類し製本したものである。アメリカよりマイクロフィルムを入手した。『新小説』の全冊を見ることができなかった当時、これで作品を読むことができる。日本、中国ではその存在を知らない珍しいものといえる。
19801201
+01曾孟樸の修学
樽本照雄 『清末小説研究』第4号 清末小説研究会1980.12.1
85-111頁。曾孟樸が考証の学問に熱中すること、フランス語を学んだいきさつを述べる。曾孟樸の評伝的研究の一部をなす。
19801202
+01商務印書館と夏瑞芳
沢本郁馬 『清末小説研究』第4号 清末小説研究会1980.12.1
112-124頁。商務印書館の創立者のひとりである夏瑞芳の経歴を探求し、彼の果した役割が重要であることを述べる。本論は、中国語に翻訳された。
19810102
書けば堕する――厳紹〓『日本の中国研究者』のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第26号 中国文芸研究会1981.1.31
3-4頁。
19810401
茅盾の『童話』
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第27号 中国文芸研究会1981.4.1
3-7頁。商務印書館発行の童話シリーズは、日本の書店で発掘した。そのなかで茅盾が執筆した商務印書館発行の「童話」シリーズの原物がどのようなものかを解説研究する。
19810402
+10中国近代文学研究は復活しつつあるか
樽本照雄 『野草』第27号 中国文芸研究会1981.4.20
123-131頁。「文革」終了後、伝統ある中国近代文学研究はどうなっているのか、将来にどんな研究計画をもっているのか、中国社会科学院からの来信をもとにして紹介する。
19810403
+01ノート・劉鉄雲の周辺
樽本照雄 『野草』第27号 中国文芸研究会1981.4.20
131-132頁。
19810601
日本学術界関注蒋逸雪等的劉鶚研究活動
樽本照雄作 漢祥訳 『揚州師院学報(社会科学版)』1981年2期 1981.6
19810902
+03李伯元と朝日新聞社の西村君
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第30号 中国文芸研究会1981.9.18
3-5頁。李伯元と交際のあった朝日新聞の西村君とは、誰か。西村博か西村天囚か。時期的に見て、上海を訪れていたのは西村天囚の可能性が高く、天囚の漢詩集から特定する。清末中国文人と日本人の交流研究の一部分を構成する。
19811102
游戯世界総目録――附著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第144号 大阪経大学会1981.11.15
65-87頁。清末に発行された小説専門雑誌『游戯世界』の総目録である。
19811201
+01「官場現形記」の初期版本
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第31号 中国文芸研究会1981.12.1
2-5頁。『世界繁華報』に連載後、線装本となった「官場現形記」の各版本を収集し、本文を比較対照したのち、版本の系統を明らかにする。重要なのは世界繁華報館が発行した増注本である。この版本を発見したことにより欧陽鉅源が注釈をほどこした版本が従来考えられていたように無視してもいいものではなく、その反対に大きな意味をもつ版本であることが判明した。つまり、「官場現形記」は李伯元と欧陽鉅源の共同作品ということだ。本論は、中国語訳された。
19811202
+01游戯主人主人選定『庚子蘂宮花選』
樽本照雄 『清末小説研究』第5号 清末小説研究会1981.12.1
15-25頁。日本で発見した李伯元の『庚子蘂宮花選』は、中国大陸においても言及されない新出資料である。彼が新聞で開催した名妓コンテストの記録であり、そのいきさつ、選考過程、選出結果が明らかにされている。李伯元の活動を裏付ける第一級の資料といえるだろう。
19811203
中華書局創立までの陸費逵
沢本郁馬 『清末小説研究』第5号 清末小説研究会1981.12.1
48-51頁。商務印書館と敵対した中華書局の創設者・陸費逵は、その経歴が必ずしも明らかではなかった。その経歴を探求する。
19811204
李伯元研究資料目録
清末小説研究会 『清末小説研究』第5号 清末小説研究会1981.12.1
71-104頁。李伯元関係資料を版本、研究論文などに分類し網羅した。
19820202
+01『新小説』の発行年月と印刷地
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第32号 中国文芸研究会1982.2.14
11-14頁。中国最初の小説専門雑誌『新小説』は、日本横浜で創刊され、印刷ののち中国大陸に発送されていた。第2巻よりその印刷は上海で行なわれるようになった、というのが定説である。しかし、雑誌そのものの印刷情況をくわしく調査し、発行広告記事を手掛かりにすると、上海に印刷所を変更したという事実はないことが判明した。
19820402
+01「官場現形記」裁判
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第33号 中国文芸研究会1982.4.1
11-13頁。「官場現形記」をめぐり、李伯元の遺族と欧陽鉅源の間に裁判めいた事件が発生する。『世界繁華報』の経営から欧陽鉅源が追い出されそうになったこと。「官場現形記」の海賊版を出した出版商が訴えられたこと。裁判官は、出版商に版権を買い取り遺族に金を払うよう、新聞の経営は欧陽鉅源に任せることにした。遺族、出版商、欧陽鉅源ともに満足する結果となったことを述べる。本論は、中国語訳された。
19820501
+03劉鉄雲と中根斎
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第34号 中国文芸研究会1982.5.15
5-6頁。大倉組北京支局長の中根斎は、劉鉄雲と仕事上の交際があった。その事実のおおよそを調査して述べる。清末文人と日本人の交流を研究するその一部分を構成する。
19820502
+03商務印書館と山本条太郎
樽本照雄 『大阪経大論集』第147号 大阪経大学会1982.5.15
98-112頁。東京・金港堂は、上海・商務印書館と約10年間合弁会社であった。その事実は、あまり知られていない。ゆえに合弁と合弁解消の詳細は、明らかにされていないといっていい。合弁の影に三井物産上海支店長であった山本条太郎がいた。金港堂社主の原亮三郎は、教科書発行から手を引き、中国大陸に進出しようと準備していた。原の娘婿であった山本条太郎は、親しい印錫璋から商務印書館の経済建て直しを依頼されたと考えられる。印錫璋は、商務印書館に投資をしていた人物でもあったのだ。商務印書館と金港堂の合弁は、人的関係で成立していたことを述べる。本論は、中国語訳された。
19820701
+10『訳林』のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第35号 中国文芸研究会1982.7.13
2-4頁。林琴南が関係した雑誌である。中国の図書館へ依頼してマイクロフィルムで複写したもらったものに基づいた。日本では普通の業務であろうが、当時の中国ではまことに珍しいケースであったろう。
19820702
新小説総目録――附著者名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第148号 大阪経大学会1982.7.15
145-174頁。清末に発行された中国最初の小説専門雑誌『新小説』の総目録である。
19821002
《老残遊記》(《天津日日新聞》版)初集,二集刊行考
樽本照雄著 草平訳『文学研究動態』中国社会科学院文学研究所動態組編1982年10期
19821102
+15『航海少年』は魯迅の翻訳か
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第37号 中国文芸研究会1982.11.15
4-6頁。魯迅の失われた翻訳原稿「北極探検記」は、商務印書館発行の『航海少年』ではないか、と胡従経が問題提起した。しかし、『航海少年』を子細に検討すると、その内容において明らかに「北極探検記」とは異なる。
19821201
+01「官場現形記」の真偽問題 pdf
樽本照雄 『清末小説研究』第6号 清末小説研究会1982.12.1
12-26頁。「官場現形記」の後半部分は、李伯元の作ではないという説がある。主張するのは胡適、阿英だ。その論拠は、李伯元が死去したとき作品が完成していなかったという点にある。魏紹昌が、李伯元の死去以前に作品を完成させているとし、それを否定する。だが、問題はそれで終わらない。世界繁華報館が発行する欧陽鉅源の増注本がある。本文を比較対照すると部分的に書き換えがある。「官場現形記」が、李伯元と欧陽鉅源の共同作品であることを意味しているのだ。本論は、中国語訳された。
19821202
四作家研究資料目録補遺1
清末小説研究会 『清末小説研究』第6号 清末小説研究会1982.12.1
91-113頁。李伯元、呉趼人、劉鉄雲、曾孟樸関係資料を版本、研究論文などに分類し補充した。
19830102
全集版「阿Q正伝」の誤植
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第38号 中国文芸研究会1983.1.15
4-6頁。革命をいう阿Qに趙旦那が、「老Q」と呼びかける。しかし、初出は「Q老」となっているのだ。初出がそうであるならば、全集版の「老Q」は誤植であるといわざるをえない。
19830302
「阿Q正伝」の誤植について
沢本郁馬 『中国文芸研究会会報』第39号 中国文芸研究会1983.3.15
19830303
+03艾羅補脳汁の正体
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第39号 中国文芸研究会1983.3.15
4-8頁。呉趼人が広告文を書いたのは、精神強壮剤――艾羅補脳汁である。フランスの医師が発明したという触れ込みながら、その実、黄楚九が自分で発明し、フランス人の名前を使用したのだ。黄楚九の実業家としての敏腕を調査した。
19830402
+12関於《老残遊記》外編残稿的写作年代――与時萌先生商〓
樽本照雄 「文学遺産」第582期『光明日報』1983.4.12
中国語。「老残遊記」外編の執筆年代を時萌は、1905年とする。しかし事実は、劉鉄雲が、朝鮮経由で日本を訪問した1906年以後である。外編に朝鮮訪問が書き込まれているのがその証拠だ。
19830502
Q老・老Q問題についての中間報告
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第40号 中国文芸研究会1983.5.15
6-8頁。
19830702
Q老・老Q問題について訂正・質問・感謝・反論する
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第41号 中国文芸研究会1983.7.15
5-8頁。
19830704
商務印書館与夏瑞芳
沢本郁馬著 筱松訳 汪家熔注 『商務印書館館史資料』之二十二 北京・商務印書館総編室編印1983.7.20
19830903
+01『清末小説閑談』
樽本照雄 大阪経済大学研究叢書XI 法律文化社1983.9.20
A5判、総頁403。清末小説に関する論文24篇を収録する。論文の冒頭に+01を印す。
19830904
+01#07(『清末小説閑談』)あとがき
樽本照雄 法律文化社1983.9.20 大阪経済大学研究叢書XI
401-403頁。
19831101
阿Q,六月に雪どけ水を飲む気分
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第43号 中国文芸研究会1983.11.15
5-7頁。魯迅「阿Q正伝」に出現する「六月に雪どけ水を飲む気分」という表現は、秋瑾の死と関係する。「六月」と明記されているのにはそういう意味があるのだから、これを「真夏」などと翻訳するのは原文の意味を理解していないといってもいい。
19831201
+12関於《老残遊記》外編残稿的写作年代――与時萌先生商
樽本照雄 『清末小説研究』中文版(第7号)1983.12.1
20-22頁。
19831202
二人の周樹人
樽本照雄 『伊地智善継・辻本春彦両教授退官記念中国語学・文学論集』東方書店1983.12.10
166-188頁。魯迅の本名は周樹人である。しかし、周樹人という名前が新聞に掲載されていればそれがすなわち魯迅を指す、とは単純に言うことができない。魯迅以外に周樹人という人物が存在することを資料を提出して述べる。
19840102
魯迅の「吶喊正誤」
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第44号 中国文芸研究会1984.1.20
3-4頁。
19840201
+03「老残遊記」のモデル問題――〓姑の場合
樽本照雄 『野草』第33号 中国文芸研究会1984.2.10
43-54頁。「老残遊記」に登場する不思議な女性・姑は、劉大紳の証言があって架空のものだ、モデルはいない、というのが定説であった。しかし、厳薇青は劉鉄雲の親戚にモデルがいる可能性があると書いた。盛成より、親戚にモデルと思われる女性が存在すると示唆される。太谷学派関係者の関係図を作成すると、厳薇青の推論が正しくなるのだ。本論は、中国語訳された。
19840301
秋瑾東渡小考
樽本照雄 「文学遺産」第629期『光明日報』1984.3.13
中国語。秋瑾の来日について多数の説が述べられている。新聞の記事を発掘し、秋瑾の神戸着が1904年7月2日であることを特定する。
19840302
+12『官場現形記』的真偽問題
樽本照雄著 訳者名不記 晩清小説大系『官場現形記』台湾・広雅出版公司1984.3
19840501
秋瑾東渡小考
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第46号 中国文芸研究会1984.5.15
19840601
+03秋瑾来日考
樽本照雄 『大阪経大論集』第159-161合併号 大阪経大学会1984.6.30
1065-1074頁。秋瑾の来日について多数の説が述べられているということは、中国の研究者が確実な資料を把握していないことを表わしている。大きなてがかりは、秋瑾と同じ船で帰国した服部繁子の手記にあった。新聞の記事が重要である。新たな資料を発掘し、秋瑾の神戸着が1904年7月2日、東京着は7月4日であることを特定する。
19840902
+12誰是《繍像小説》的編輯人
樽本照雄 「文学遺産」第653期『光明日報』1984.9.4
中国語。『繍像小説』の編集者は、李伯元というのが定説である。これに対して汪家熔は、李伯元ではないことを提起する。汪家熔の掲げるいくつかの理由がいずれも成立しがたいこと、特に、李伯元の「文明小史」が劉鉄雲「老残遊記」から文章を盗用している事実からみても、それが出来るのは李伯元以外にはありえないことをいう。ゆえに『繍像小説』の編集は、李伯元である。
19840903
+03天津で見つけた『老残遊記』初集
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第48号 中国文芸研究会1984.9.15
1-3頁。幻の『老残遊記』初集は、ついに天津図書館で発見した。日本で見つけた『老残遊記』二集とあわせて、最重要の版本をそろえて閲覧することができるようになった。
19850201
+03贋作漢訳ホームズ
沢本郁馬 『中国文芸研究会会報』第50期記念号 中国文芸研究会1985.2.15
2-3頁。『深浅印』という翻訳小説は、コナン・ドイルのホームズ物ということになっている。阿英編の小説目録にもドイル物として採録してある。しかし、原物を読んでみると、まことに本物らしく書いてはあるのだが、ドイルの作品ではない。贋作なのである。清末時期に発表された翻訳小説は、翻案、贋作の存在を含んでいるので研究するのがむつかしくなる。
19850202
+03『繍像小説』の編者は誰か――論争の情況
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第50期記念号 中国文芸研究会1985.2.15
25-26頁。汪家熔との論争――『繍像小説』の編集は李伯元かどうか――は、『光明日報』に掲載されたため全中国から研究者が投稿し論争に参加することになった。その情況を追跡する。
19850204
《老残遊記》中人物塑造的問題――関於姑
樽本照雄著 武殿勲訳『山東師範大学学報』1985年2期
19850302
+10天津図書館所蔵の呉趼人著作
樽本照雄 『〓唖』第20号 〓唖之会1985.3.10
7-9頁。天津図書館に所蔵される呉趼人著作について述べる。天津図書館では、清末小説を中心に調査をした。雑誌の呉趼人特集にあわせて表題の問題にしぼった。
19850502
+03『繍像小説』李伯元編者説の根
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第52号 中国文芸研究会1985.5.15
7-10頁。『繍像小説』の編集者を李伯元とする資料のうち、最古のものは何か、を探求する。陶報癖の文章が、李伯元編者の根拠であることが判明した。
19850503
関於“李伯元与劉鉄雲的一段文字案”
樽本照雄 『大阪経大論集』第165号 大阪経大学会1985.5.15
49-52頁。中国語。汪家熔との論争のなかで、李伯元が劉鉄雲の文章を盗用した事実が問題として浮上した。汪家熔は、劉鉄雲が李伯元の文章を盗用したのだと、従来の説と180度異なる見解を表明するにいたっている。それが、いかに事実と符合しない見方かを論証する。
19850602
+03新聞に見る秋瑾来日
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第53号 中国文芸研究会1985.6.30
12-14頁。秋瑾の来日を『神戸新聞』『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』の記事により追跡する。本論は、中国語訳された。
19850702
+03劉鉄雲が李伯元を盗用したのか――汪家熔説を批判する
樽本照雄 『大阪経大論集』第166号 大阪経大学会1985.7.15
121-127頁。李伯元が劉鉄雲の文章を盗用したのではなく、その反対で、劉鉄雲が李伯元の文章を盗用したと汪家熔は主張する。その根拠は、「文明小史」発表後に劉鉄雲によって加筆された78字が、「文明小史」に1字の変更もなく掲載されている、ということだ。しかし、それは事実ではない。虚偽を反論の基礎とするならば、この論争は継続しても無駄なことだ。
19850703
+03呉趼人「電術奇談」の原作
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第54号 中国文芸研究会1985.7.30
8-12頁。呉趼人「電術奇談」は、その原作が菊池幽芳の作品であることは明らかにされている。しかし、菊池幽芳のどういう作品であるのか、それを指摘したものはない。長年の調査の模様を紹介し、その結果、菊池幽芳「新聞売子」が原作であることをつきとめた。
19850704
《老残遊記》(《天津日日新聞》版)初集,二集刊行考
樽本照雄著 草平訳 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民出版社1985.7
19850705
試論《老残遊記》
樽本照雄著 鄒天隆訳 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民出版社1985.7
19850902
+03『繍像小説』の刊行時期
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第55号 中国文芸研究会1985.9.30
5-10頁。『繍像小説』の創刊が光緒29(1903)年五月初一日であることは確実である。しかし、雑誌は途中で発行年を記載しなくなる。従来は、月2回の発行が守られたとし、李伯元の死去により停刊したのが光緒32(1906)年三月十五日だということになっていた。ところが、張純によるとその停刊は、1907年に遅れていたという。当時の天津『大公報』、『同文滬報』、『東方雑誌』を資料にし、その広告などにより『繍像小説』の刊行が徐々に遅れていたことをより精密に推測し、停刊を1906年末とする。李伯元死去後も雑誌は発行されていた事実が出現する。
19850903
+01辞典項目
樽本照雄 丸山昇・伊藤虎丸・新村徹編『中国現代文学事典』東京堂出版1985.9.30
清末小説,鴛鴦蝴蝶派,劉鶚,呉沃堯,李寶嘉,曾樸,周痩鵑,申報,訳書彙編,訳林,新小説,繍像小説,新新小説,月月小説,小説林,礼拝六
19851102
+03阿英編「近百年来国難文学大系」
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第56号 中国文芸研究会1985.11.30
10-11頁。1948年に発行された表題の文集は、のちの『中法戦争文学集』と『甲午中日戦争文学集』に結実していることを述べる。
19851201
+03呉趼人「電術奇談」の方法
樽本照雄 『清末小説』第8号 清末小説研究会1985.12.1
9-31頁。呉趼人「電術奇談」と原作である菊池幽芳「新聞売子」の文章を比較対照する。その結果、原作の大筋に忠実である、具体的な加筆を行なっている、その加筆は読者に興味をもたせる効果を発揮していることが判明した。作品にメリハリをつける小説技術を呉趼人が持っていたことを指摘する。
19851202
+03晩清小説大系『老残遊記』の素性
樽本照雄 『清末小説』第8号 清末小説研究会1985.12.1
43-45頁。台湾広雅出版有限公司「晩清小説大系」本『老残遊記』は、北京・人民文学出版社版と魏紹昌編『老残遊記資料』および台湾世界書局版の3冊をもとにして、しかも、それを、明記せずに編集されたお手軽本であることをいう。
19851203
+03ワクドキ清末小説
沢本香子 『清末小説』第8号 清末小説研究会1985.12.1
1-8頁。『繍像小説』の編集者が誰かという論争から、『繍像小説』の刊行時期が遅れていたという問題に発展してきた経過を追跡する。中国大陸、日本、ニュージーランドなどの研究者を巻き込んだ大規模な論争となった。
19851204
+03孫次舟本『〓海花』について
神田一三 『清末小説』第8号 清末小説研究会1985.12.1
39-42頁。孫次舟が編集した『〓海花』(1943)は、本文のみならず当時の研究論文をも収録した良心的出版物である。天津図書館で見つけたので紹介する。
19851205
樽本照雄『清末小説閑談』索引
清末小説研究会 『清末小説』第8号 清末小説研究会1985.12.1
46-93頁。
19851207
第二部清末文学
樽本照雄 中国文芸研究会・〓唖之会編発行『中国近現代文学研究ガイド』1985.12.1
47-57頁。清末小説研究に必要な工具書を紹介する。
19860102
+03「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を論じる
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第57号 中国文芸研究会1986.1.30
1-4頁。「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係というのは、以前は、劉鉄雲と李伯元のそれであった。ところが、李伯元死後も「文明小史」が書かれていたことが判明し、それでは「文明小史」の作者は誰か、という問題が出現する。李伯元の交遊を考えると、それは欧陽鉅源以外には見当らないことを言う。
19860302
+03「老残遊記」の年代を考える
樽本照雄 『野草』第37号 中国文芸研究会1986.3.20
90-95頁。「老残遊記」で描かれた年代は、いくつかの説が存在する。1853、54、55年とするものがある。しかし、1855年にそれまで南下していた黄河が洪水で北上していることを考えれば、それらは間違いである。作品の登場人物のせりふから推測すると、それが1891年であることを論証する。
19860401
+03劉鉄雲の初来日
樽本照雄 『清末小説から』第1号 清末小説研究会1986.4.1
8-10頁。劉鉄雲が日本を最初に訪問したのは、1906年であることを当時の『大阪朝日新聞』の記事から特定する。
19860402
+03商務印書館研究はどうなっているか
沢本郁馬 『清末小説から』第1号 清末小説研究会1986.4.1
1-8頁。出版研究の一部を構成するのが、商務印書館研究である。基本資料と考えられる朱蔚伯論文、信頼できる汪家熔本など、いくつかの重要論文を検討する。
19860503
+03気になる『繍像小説』の奥付
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第59号 中国文芸研究会1986.5.31
1-3頁。『繍像小説』刊行遅延問題研究の一部である。奥付に見える販売取次所の広告に変化が見える。世界繁華報館の名前が消失するのは、李伯元の死去に関係することを述べる。
19860602
+03李伯元と劉鉄雲の盗用関係2
樽本照雄 『〓唖彙報』第11号 〓唖之会1986.6.25
4-5頁。李伯元の死去後も『繍像小説』が発行されていたとすれば、「文明小史」は欧陽鉅源によって書き継がれていたことになる。「老残遊記」から文章を盗用して「文明小史」に取り込んだのは、欧陽鉅源だったといえる。総合すれば、南亭亭長という筆名は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であったと考えるのが適当だろう。
19860701
+03再来日した劉鉄雲
樽本照雄 『清末小説から』第2号 清末小説研究会1986.7.1
6-8頁。劉鉄雲の2度目の来日を当時の新聞より特定する。劉鉄雲の詩集に収録された来日時の詩を、来日の日程にしたがって配列しなおすことができた。
19860702
+03漢訳ヴェルヌ「海底旅行」の原作
神田一三 『清末小説から』第2号 清末小説研究会1986.7.1
1-5頁。漢訳ヴェルヌ「海底旅行」は、当時の日本語訳からの翻訳である。鈴木梅太郎訳、井上勤訳、大平三次訳本の3種類が存在しているが、本文を対照検討した結果、大平訳をさらに意訳したものであることを述べる。
19860703
中村忠行・日中比較文学研究論文目録
無署名 『清末小説から』第2号 清末小説研究会1986.7.1
9-10頁。中村忠行著の清末関係の日中比較文学研究論文を網羅する。
19860707
秋瑾東渡的報刊史料
樽本照雄著 張純輯 『社科信息』第6期 江蘇省社会科学院聯合会1986.7?
19860801
『清末小説きまぐれ通信』
樽本照雄 清末小説研究会1986.8.1
B5判、総頁52。清末小説に関して書いた短文を清末小説研究通信と称して発行していた。その全50篇を1冊にまとめたもの。
19861001
+03劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』はよろしい
樽本照雄 『清末小説から』第3号 清末小説研究会1986.10.1
1-7頁。劉鉄雲日記を復刻収録した本資料は、研究上画期的な役割をはたすであろうことを述べる。
19861201
+03「老残遊記」の下書き手稿について
樽本照雄 『清末小説』第9号 清末小説研究会1986.12.1
7-12頁。現存する「老残遊記」の下書き手稿数葉は、いつ書かれたものか、再度考察する。『繍像小説』に掲載されたのち、原稿が出版社より返却されたとは考えられない。手稿の写真を見ると、明らかに下書きである。この下書きをもとに清書して出版社へ渡したと考えられる。
19861202
資料:「老残遊記」の下書き手稿
清末小説研究会 『清末小説』第9号 清末小説研究会1986.12.1
13-29頁。下書き手稿とそれに対応する『繍像小説』原文、および南亭亭長「文明小史」の該当部分を対照する。「老残遊記」と「文明小史」の盗用関係を論証する時の基本資料である。
19861203
+03劉鉄雲辛丑日記を再構成する
沢本香子 『清末小説』第9号 清末小説研究会1986.12.1
37-66頁。劉鉄雲の日記のうち辛丑の年のものが行方不明となっている。現在、それを除いた日記は、復刻されているが、過去においては、部分的に雑誌へ掲載発表されたりしている。その日記全体の歴史的変遷を追求する。
19861205
+03劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか
樽本照雄 『節令』第7期 早稲田大学文学部中文研究室1986.12.1
6-7頁。劉鉄雲は、梁啓超の「十五小豪傑」の原稿を読んだという説がある。日記にその題簽を書いたということを論拠としている。だが、日記の前後を読むと、書店で雑誌などを購入しているから、「十五小豪傑」が掲載されている『新民叢報』も入手した可能性があるではないか。題簽は、原稿につけたものではなく、雑誌から抜きだして製本したもの用に準備したと考える方が自然である。
19861206
+03劉鉄雲と李伯元をつなぐもの
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第4号 大阪経大学会1986.12.31
111-122頁。劉鉄雲日記の1ヵ所に李伯元と会ったことが記録されている。「老残遊記」から「文明小史」に文章を盗用されているにもかかわらず、なぜ面会するのか。その理由は、金石文研究に関わるものであると考えざるをえない。劉鉄雲と李伯元のふたりを結びつける共通の嗜好は、金石文なのだ。
19870101
+03贋作の本棚
樽本照雄 『清末小説から』第4号 清末小説研究会1987.1.1
1-6頁。「老残遊記」の贋作、呉趼人の作とする「情魔」、李伯元の翻訳と偽る「冰山雪海」などなど、避けて通ることのできない偽物について述べる。
19870105
+10将来がたのしみな中国の清末小説研究
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第63号 中国文芸研究会1987.1.31
5-8頁。中国大陸では長らく避けられてきた清末小説研究であるが、新しい研究世代が出現しつつあることを述べる。
19870201
秋瑾東渡小考
樽本照雄 郭延礼編『秋瑾研究資料』山東教育出版社1987.2
19870701
+03劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか2
樽本照雄 『清末小説から』第6号 清末小説研究会1987.7.1
1-3頁。劉鉄雲が梁啓超の「十五小豪傑」の題簽を書いた点について、劉徳隆との論争になった。私は、雑誌掲載の該作品を製本したものに題簽を書いたと主張し、劉徳隆は、あくまでも原稿のために書いたという。横浜新民社発行の『十五小豪傑』そのものに劉鉄雲の書いた題簽があれば、劉徳隆説が正しい、そうでなければ私の説が正しい。実物が出現するまで、疑問のままに置くよりしかたがない。
19870702
+12呉趼人《電術奇談》的原作
樽本照雄 『清末小説から』第6号 清末小説研究会1987.7.1
11頁。中国語。呉趼人「電術奇談」の原作が、菊池幽芳の「新聞売子」であることを述べる。中国の研究者のために書いた。
19871001
劉鉄雲の汪康年・梁啓超あて手紙
樽本照雄 『清末小説から』第7号 清末小説研究会1987.10.1
5-8頁。汪康年の書信集に劉鉄雲の手紙が収録されている。アメリカで医者になった中国人女性のことについて梁啓超が紹介の文章を書いた。劉鉄雲が、その女性と結婚をしたい、という売り込みの手紙なのだ。珍しいので紹介した。
19871101
+12【学会未報告】劉鉄雲和日本人
樽本照雄 劉鶚誕辰一百三十周年紀念学術討論会 淮安・楚州賓館 中国 1987.11.11
19871201
+03清末民初小説目録の構想
樽本照雄 『清末小説』第10号 清末小説研究会1987.12.1
1-9頁。中国においていまだに編纂されていない清末民初の小説目録は、どのような編集方針を採用すべきかを論じる。初出の雑誌から、単行本のすべてを収録する目録が便利だと結論した。その方針を堅持すると、実際には1万件余を収録する目録になり、発行することができた。
19871202
+03劉鉄雲と日本人
樽本照雄 『清末小説』第10号 清末小説研究会1987.12.1
10-29頁。劉鉄雲は、上海、北京、天津において多くの日本人を友人とした。その交際範囲は、西村天囚、西村博、中島裁之、内藤湖南などなど多彩である。事業、金石学、日本語学校などに関係した劉鉄雲の幅の広さを示している。本論は、中国語訳された。
19871203
清末小説研究ガイド
清末小説研究会 『清末小説』第10号 清末小説研究会1987.12.1
92-108頁。清末小説研究をする場合の基本文献を紹介する。作家について調べる、作品について調べる、所蔵を調べるなどなど。
19880301
『清末民初小説目録』
清末小説研究会 中国文芸研究会1988.3.1
A4判、総頁1142。清朝末期から民国初期に発表された小説を、その初出から最近の単行本まで網羅する。創作と翻訳を合計して約1万件の作品を収録した本目録は、清末小説研究の基本文献である。
19880307
+12劉鶚和日本人
樽本照雄 『大阪経大論集』第181・182号 大阪経大学会1988.3.31
269-275頁。中国語。劉鉄雲と交際のあった日本人について調査した結果を述べる。中国での学会発表のために用意した原稿である。
19880305
劉鉄雲与〔老残遊記〕
樽本照雄著 謝碧霞訳 林明徳編『晩清小説研究』台湾・聯経出版事業公司1988.3
19880309
+12〔官場現形記〕的初期版本
樽本照雄著 謝碧霞訳 林明徳編『晩清小説研究』台湾・聯経出版事業公司1988.3
19880310
+12〔官場現形記〕的真偽問題
樽本照雄著 謝碧霞訳 林明徳編『晩清小説研究』台湾・聯経出版事業公司1988.3
19880307
〔官場現形記〕審判
樽本照雄著 謝碧霞訳 林明徳編『晩清小説研究』台湾・聯経出版事業公司1988.3
19880402
+03初期商務印書館をもとめて
樽本照雄 『清末小説から』第9号 清末小説研究会1988.4.1
4-9頁。初期商務印書館は、創業から業績があがるにつれてその所在を変更した。それぞれの所在地を現地上海において探索したその記録。
19880702
呉梼翻訳目録
署名なし 『清末小説から』第10号 清末小説研究会1988.7.1
19880707
魯迅「阿Q正伝」の諸版について
樽本照雄 『大阪経大論集』第184号 大阪経大学会1988.7.15
53-71頁。魯迅「阿Q正伝」の諸版本を収集し(北京、天津の図書館所蔵本を含む)、字句を比較対照する。魯迅は、書き上げた作品には手を入れないという説があるが、本文を見れば書き換えが行なわれていることがわかる。通説を否定することになった。
19880801
+03清末民初小説のふたこぶラクダ
樽本照雄 『野草』第42号 中国文芸研究会1988.8.1
23-33頁。清末民初に発行された多くの小説は、量的に把握するとどのような傾向にあったのか。発行点数を順番に数えコンピュータでグラフを描くと、辛亥革命時期を谷としたふたつの山を形成することがわかった。これをその形態から「ふたこぶラクダ」と名付ける。
19881001
+03引き裂かれる清末
樽本照雄 『清末小説から』第11号 清末小説研究会1988.10.1
1-9頁。数多く発行された文学史において清末という時代はどうとらえられてきたのか。古典のしっぽか、新文学の頭か、このふたつに分かれる。中華人民共和国成立以前は、新文学の頭、つまり始まりとして位置付けられていたが、新中国成立後は古典のしっぽとされる。その原因が毛沢東「新民主主義論」にあることを指摘する。
19881201
+03「老残遊記」の中の黄竜子たち
樽本照雄 『清末小説』第11号 清末小説研究会1988.12.1
1-11頁。「老残遊記」に登場する不思議な人物、黄竜子たちは実在の誰をモデルにしたものかを探る。太谷学派の黄葆年であろうが、その他の人物も黄竜子に組み込まれているであろうことを論証する。
19881202
+03新聞に見る徐錫麟事件,秋瑾事件
沢本香子 『清末小説』第11号 清末小説研究会1988.12.1
41-97頁。徐錫麟事件と秋瑾事件が日本の新聞にどのように報道されたのかを探索する。
19890101
+03改竄される書物
樽本照雄 『清末小説から』第12号 清末小説研究会1989.1.1
1-4頁。阿英『晩清戯曲小説目』「叙記」は、書き換えられている事実を指摘する。はじめ、ソ連との友好を謳っていた部分が、中ソ論争が起こることにより削除されているのだ。中国においては研究も政治に左右されるという実態を明らかにする。
19890301
+10阿英の清末小説観――中島利郎「阿英『清末小説史』の成立」を読んで――
樽本照雄 『野草』第43号 中国文芸研究会1989.3.1
19890303
商務印書館与山本条太郎
樽本照雄著 東爾訳 『商務印書館館史資料』之四十三 北京・商務印書館総編室編印1989.3.20
19890401
+03秋瑾来日再考
樽本照雄 『清末小説から』第13号 清末小説研究会1989.4.1
1-9頁。秋瑾の来日の正確な日時について中国の研究者郭長海より批判があった。当時発行されていた『神戸新聞』の汽車の時刻表にもとづき、郭長海説が成立しないことを実証する。
19890801
+03「老残遊記」の評について
樽本照雄 『野草』第44号 中国文芸研究会1989.8.1
42-57頁。「老残遊記」につけられた「原評」は、劉鉄雲自身が書いたものだと考えられている。ところが、張亜権がそれを批判し、劉鉄雲以外の人物が書いたと立論した。その根拠を詳細に検討し、張亜権説が成立しないことを述べる。
19891001
+03清末民初作家の原稿料
樽本照雄 『清末小説から』第15号 清末小説研究会1989.10.1
1-7頁。清末民初の作家の原稿料についてまとまったかたちで書かれた論文はない。あちこちに断片的に触れられている記事を集約し、梁啓超、魯迅、林琴南、連夢青、包天笑などの例を示す。当時の一般的収入を新聞記事で掘り起こしながら、作家の原稿料を探る。
19891005
《清末民初小説目録》序
樽本照雄作 范泉訳『中国近代文学争鳴』第1輯1989.10
19891202
+03〓叟という人物――呉趼人の筆名をめぐって
樽本照雄 『清末小説』第12号 清末小説研究会1989.12.1
16-40頁。呉趼人が持つ筆名のひとつに〓叟というものがある。定説である。しかし、〓叟名義の作品が呉趼人死後の新聞に掲載されている事実を発見した。その人物を追求していくと談長治という作家が浮び上がる。談長治の写真を掲げるとともに、〓叟は呉趼人の筆名ではなく談長治のものだと仮説を立てる。
19900101
+03連夢青の災難
樽本照雄 『清末小説から』第16号 清末小説研究会1990.1.1
1-6頁。劉鉄雲の友人である連夢青については、その経歴など不明な点が多い。『国民日日報』に掲載された記事の中に連夢青の名前を見つけ、新聞界で発生した権力闘争に連夢青が関係していた事実を明らかにする。
19900104
「老残遊記」人名索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第193号 大阪経大学会1990.1.15
101-170頁。「老残遊記」に表われた人名の索引。人民文学出版社、同再版、斉魯書社、老残遊記資料の4種類について一覧できるように作成した。4種類を使用したのは、初集20回、二集9回、外編のすべてを収録する版本が斉魯書社本のみで、一般に普及している人民文学出版社本が不完全本であるからだ。
19900302
+10陳遼「関於《老残遊記》的一〓公案」を読む
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第100期記念号 中国文芸研究会1990.3.30
19900401
+04井上紅梅・大成教・劉鉄雲
樽本照雄 『清末小説から』第17号 清末小説研究会1990.4.1
1-5頁。井上紅梅がその著作で紹介した大成教とは、劉鉄雲が属していた民間の思想集団であった。井上は、大成教を紹介するにさいし、『清稗類鈔』を無断で引用している。ただし『清稗類鈔』も当時出版されていた雑誌などから無断引用し集めたものであることを指摘する。
19901001
+15清末翻訳二題
樽本照雄 『清末小説から』第19号 清末小説研究会1990.10.1
1-5頁。ジュール・ヴェルヌ『海底二万リュー』を漢訳した盧藉東と、菊池幽芳『新聞売子』の漢訳者方慶周は、日本の横浜大同学校に同級生として在籍していた事実を発掘する。また、哥徳斯密著『姉妹花』の原作が、ゴールドスミスの「ウェイクフィールドの牧師」であることを突き止めた。
19901201
清末民初における定期刊行物の時空(附:「清末民初の定期刊行物一覧」)
樽本照雄 『清末小説』第13号 清末小説研究会1990.12.1
9-30頁。清末民初に発行された雑誌を発行順、地域別に整理し直し、その中心地が基本として上海にあったこと、清末時期には日本が、民初時期には北京が重要な役割をはたしたことを述べる。その地理的関係を雑誌発行の三角形(トライアングル)と名付ける。
19901202
+05+09蒋維喬と日本人――蒋維喬日記から
沢本香子 『清末小説』第13号 清末小説研究会1990.12.1
41-52頁。
1991
劉鉄雲和日本人
樽本照雄著 東炎訳『寧夏教育学院・銀川師専学報』1991年第1期 1991
19910101
+04梁啓超の盗用
樽本照雄 『清末小説から』第20号 清末小説研究会1991.1.1
1-8頁。清末に変法派のジャーナリストとして名をはせた梁啓超は、亡命先の日本・横浜で雑誌を発刊する。翻訳であるにもかかわらず原文を明示しなかったため盗用と批判されたのが徳富蘇峰「インスピレーション」である。日本語原文を特定し中国語訳と比較対照した。
19910201
+04「老残遊記」批判とは何か
樽本照雄 『野草』第47号 中国文芸研究会1991.2.1
139-158頁。中華人民共和国成立後、胡適批判が政治運動として発動された。清末の小説「老残遊記」は、胡適が評価したというだけで反動の書と認定され、作者の劉鉄雲は反動作家と批判されることになった。作品自体の評価とは関係なくだ。政治運動に利用された小説がいかなる評価の変遷をたどったのか、資料で裏付ける。
19910301
+05+09商務印書館が触れられたがらない事
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第113号 中国文芸研究会1991.3.30
14-19頁。上海・商務印書館と東京・金港堂が1903年より1904年まで合弁会社であったのは歴史の事実である。しかし、その事実を公にすることを商務印書館は欲しなかった。外国資本と手を結んでいたと受け取られるのを極度に嫌っていたからである。「文革」を経た学界においてもこの時の後遺症が現われていることを指摘する。
19910302
『二十世紀中国小説史』第一巻索引
樽本照雄 『大阪経大論集』第200号 大阪経大学会1991.3.31
385-430頁。陳平原著の該書には索引がついていない。索引を作成する価値のある文学史である。
19910401
+05+09商務印書館の火災
樽本照雄 『清末小説から』第21号 清末小説研究会1991.4.1
1-8頁。1902年、商務印書館から失火する。この事実を上海で発行されていた新聞『同文滬報』『申報』の報道記事で掘り起こす。失火後、巨大な印刷所を建設し、編訳所、発行所を同時に設置しているが、保険でまかなったとはとうてい信じられない。金港堂からの資金援助があったことを予測する。
19910404
+10飯田吉郎編『現代中国文学研究文献目録(増補版)』のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第114号 中国文芸研究会1991.4.30
19910602
日本NO清末小説研究
樽本照雄著 崔溶〓訳(ソウル)『中国小説研究会報』第6号 1991.6.25
19910701
+04「新繁華夢」の老上海は呉趼人か
樽本照雄 『清末小説から』第22号 清末小説研究会1991.7.1
1-6頁。呉趼人は老上海という筆名を持っている。しかし、「新繁華夢」が老上海という署名我持つからといって、すぐさまこれを呉趼人の作品とするのは早計である。陳輔甫という人物も同じく老上海と称していた。陳輔甫である可能性を指摘する。
19910801
+12中国第一本専登小説的期刊「繍像小説」編者疑案
樽本照雄 台北『中央日報』1991.8.20
中国語。1980年代、中国大陸でくりひろげられた『繍像小説』の編者をめぐる論争は、汪家熔の立論を樽本照雄が批判することによってはじまった。雑誌の編者問題から「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題に発展し、最後には南亭亭長が李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であることが明らかになる。この一連の論争を概述する。「二十世紀中国文学」研討会報告用に書いたもの。該紙に先に発表されるとは知らなかった。事前に掲載の相談はない。
19910802
+12【国際学会報告】《繍像小説》編者討論
樽本照雄 二十世紀中国文学――台湾、香港、日本三地学者学術交流 台北・国立台湾師範大学 台湾 1991.8.20
19911001
+05+09初期商務印書館の印刷物(上)――漢訳『新島襄伝』について
樽本照雄 『清末小説から』第23号 清末小説研究会1991.10.1
1-4頁。商務印書館は、教科書、文芸書、雑誌の出版社として有名だが、最初は、印刷請け負いを主な業務として創業した。その初期に請け負った印刷物を探索する。残っている資料はほとんどない。日本で入手した新島襄の漢訳伝記は、商務印書館の印刷物であることと、キリスト教会との結び付きを証明するものとして貴重だ。
19911002
+12【国際学会報告】晩清小説資料在日本
樽本照雄 中国近代文学国際学術研討会 上海・復旦大学 中国 1991.10.27
19911003
日本における清末小説研究(一)
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第120号 中国文芸研究会1991.10.30
5-9頁。
19911004
+12胡適如何認識《老残遊記》
樽本照雄著 陳広宏訳 『中国近代文学研究』創刊号 復旦大学中文系中国近代文学研究室編 南昌・百花洲文芸出版社1991.10
19911005
試論《老残遊記》
樽本照雄著 鄒天隆訳 王継権、周榕芳編選『台湾・香港・海外学者論中国近代小説』南昌・百花洲文芸出版社1991.10
19911101
日本における清末小説研究(二)
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第121号 中国文芸研究会1991.11.30
6-10頁。
19911201
+04南亭亭長の正体――『繍像小説』編者論争から始まる
樽本照雄 『清末小説』第14号 清末小説研究会1991.12.1
1-15頁。『繍像小説』の編者は誰か。論争の発端である。汪家熔は李伯元ではないといい、私は李伯元だと断定する。その証拠は、『繍像小説』に掲載された「文明小史」と「老残遊記」の盗用関係である。「老残遊記」の原稿から盗用できるのは編者・李伯元だけだ。その李伯元が死亡後も盗用がなされているという事実は、従来考えられていた筆名・南亭亭長=李伯元という図式に再考をせまる。つまり、南亭亭長は、李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であることを論証する。
19911203
威海版『画図新報』目録
清末小説研究会編 『清末小説』第14号 清末小説研究会1991.12.1
75-89頁。挿絵を中心としたキリスト教会発行の雑誌である。日本では珍しい雑誌であり、挿絵を特徴とする。
19920101
+05+09初期商務印書館の印刷物(下)――漢訳『新島襄伝』について
樽本照雄 『清末小説から』第24号 清末小説研究会1992.1.1
1-8頁。
19920102
+12《繍像小説》編者討論
樽本照雄 『二十世紀中国文学』台湾・学生書局1992.1
19-38頁。中国語。1980年代、中国大陸でくりひろげられた『繍像小説』の編者をめぐる論争は、汪家熔の立論を樽本照雄が批判することによってはじまった。雑誌の編者問題から「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題に発展し、最後には南亭亭長が李伯元と欧陽鉅源の共同筆名であることが明らかになる。この一連の論争を概述する。「二十世紀中国文学」研討会報告用に書いたもの。
19920201
+04日本における清末小説関係資料
樽本照雄 『野草』第49号 中国文芸研究会1992.2.1
98-120頁。日本において所蔵されている清末小説関係の資料に言及する。劉鉄雲を紹介する『大阪朝日新聞』の記事、劉鉄雲の来日を報道する新聞記事、『老残遊記』二集原本が京大人文研に所蔵されていること、古本屋で発掘した李伯元の編著などなど。
19920203
『清末小説論集』
樽本照雄 大阪経済大学研究叢書第20冊 法律文化社1991.2.20
A5判、総頁466。清末小説に関する論文48篇を収録する。論文の冒頭に+04を印す。
19920302
清末民初小説の種類(その1 準備篇)
樽本照雄 『大阪経大論集』第42巻第5号(通巻第205号) 大阪経大学会1992.3.31
77-85頁。清末民初にはおびただしい小説が発行されたのは事実だ。しかし、その数量を数字で示した研究者はいない。コンピュータを使用して小説の種類を算出する。その1は、コンピュータで利用できるデータを抽出するための作業手順をのべる。
19920401
+14統計表から商務印書館を見る(上)
樽本照雄 『清末小説から』第25号 清末小説研究会1992.4.1
1-6頁。商務印書館が発行した書籍の種類を統計表をもとにして分析する。理工系の出版物よりも文科系の出版物を主体にした営業姿勢がうかがえ、文学界に大きく貢献したのもその出版姿勢であったことをいう。
19920403
清末民初小説の種類(その2 実践篇)
樽本照雄 『大阪経大論集』第42巻第6号(通巻第206号) 大阪経大学会1992.4.19
27-40頁。清末民初に発表された小説の数をコンピュータを使用して実際に算出する。グラフ化してみると、1911年辛亥革命を谷としており、その形態は「ふたこぶラクダ」に似る。
19920502
日本における清末小説研究
樽本照雄 鍾彩鈞主編『中国文哲研究的回顧与展望論文集』台湾・中央研究院中国文哲研究所1992.5
207-220頁。日本における清末小説研究は、中国大陸の研究に大きく影響される傾向がある。その傾向を脱するのは1970年代からだ。発表された研究論文数をグラフで示しながら、大正末期から現在にいたるまでの清末小説研究の情況を一覧する。本論は、韓国語訳された。
19920701
+14統計表から商務印書館を見る(下)
樽本照雄 『清末小説から』第26号 清末小説研究会1992.7.1
1-5頁。
19921001
+04「老残遊記」の「虎」問題
樽本照雄 『清末小説から』第27号 清末小説研究会1992.10.1
1-8頁。劉鉄雲の息子・劉大紳の証言によると「老残遊記」に登場する「虎」は、最初は「狐」だったという。しかし、初出の『繍像小説』を見ても、後に再録された『天津日日新聞』版を調べても「狐」は登場しない。作品の叙述から考えても、最初から「虎」であったと考えたほうがよい。
19921201
+04「老残遊記」の成立
樽本照雄 『清末小説』第15号 清末小説研究会1992.12.1
1-33頁。「老残遊記」が書かれたのは、作者・劉鉄雲が友人・連夢青を経済的に援助するためであった。この連夢青の行動を『英斂之日記』から拾いだし、当時の言論界を揺るがせた沈緕膜盾ニのかかわりを考察し、「老残遊記」が書かれるまでの経緯を詳細に探索する。
19921202
+05+09鍵としての高翰卿「本館創業史」
沢本郁馬 『清末小説』第15号 清末小説研究会1992.12.1
85-96頁。商務印書館と金港堂の合弁について決定的な文献がみつからず、1980年代より周辺から調査をはじめてようやくおおよその経過を明らかにすることができた。ところが、1990年代になって中国でこの合弁問題を関係者自身が証言する鍵ともいうべき文献が公表された。高翰卿の表題文章である。独自に調査を進めてきて得ている結論と同一の証言が今になって出てきて、調査の正しさを証明した。
19930101
+04「老残遊記」三集は存在するか(上)
樽本照雄 『清末小説から』第28号 清末小説研究会1993.1.1
1-6頁。「老残遊記」は、初集、二集、外編が存在する。ところがそれ以外に三集があるといいだした研究者がいる。高健行だ。親族の証言、作品の実在情況から判断して三集は存在する可能性はないことを論証する。
19930102
+05+09長尾雨山二題
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第135号 中国文芸研究会1993.1.30
4-11頁。「蒋維喬日記」に長尾雨山の名前が見えるところから、雨山の商務印書館時代における教科書編纂の模様を述べる。さらに著書を持たなかったという通説が誤りであることを『南宗衣鉢跋尾』という実物を示して述べる。
19930401
+04「老残遊記」三集は存在するか(下)
樽本照雄 『清末小説から』第29号 清末小説研究会1993.4.1
1-6頁。
19930402
「函髻記」をめぐって
神田一三 『清末小説から』第29号 清末小説研究会1993.4.1
12-13頁。
19930602
『清末民初小説目録』の現在
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第140号 中国文芸研究会1993.6.30
1-6頁。『清末民初小説目録』を発行した1988年より5年が経過した時点で、日本中国における該目録の評価を紹介し、増補訂正作業を継続していることを述べる。
19930701
+04清末小説家の落魄伝説 その1 呉趼人の場合
樽本照雄 『清末小説から』第30号 清末小説研究会1993.7.1
1-10頁。呉趼人は、死亡する時ポケットにわずかな金しか所持していないほど落魄していた、というのが中国の研究者の決まり切った記述である。しかし、死亡する直前に新居を構えているなど、窮乏してした様子はない。小説家が軽視された当時の偏見が生みだした誤解であることを実証する。
19930702
+05+09資料・商務印書館特別株主大会理事会報告 解説
無署名 『清末小説から』第30号 清末小説研究会1993.7.1
19930801
+04『繍像小説』の刊行時期ふたたび
樽本照雄 『野草』第52号 中国文芸研究会1993.8.1
129-144頁。『繍像小説』の刊行が遅れていた事実を、新聞、雑誌の記事、広告から特定する。従来の定説は1904年終刊である。中国の研究論文はすべてこの説に追随しているが、それは誤りである。諸資料は、1906年年末終刊を示している。
19930802
+10陳玉堂編著『中国近現代人物名号大辞典』について
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第142号 中国文芸研究会1993.8.30
14-17頁。
19931001
+04清末小説家の落魄伝説 その2 李伯元の場合
樽本照雄 『清末小説から』第31号 清末小説研究会1993.10.1
1-9頁。李伯元は、花柳界に埋没し、晩年は呉趼人に借金するなど落ちぶれてしまった、というのが中国での定説である。資料を集め一覧することにより、呉趼人に借金した事実はなく、落魄したというのもデタラメであることを論証する。
19931002
+12【国際学会報告】「老残遊記」和「文明小史」的関係
樽本照雄 劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会 済南・南苑賓館 中国 1993.10.8
中国語。「老残遊記」と「文明小史」は、『繍像小説』という同一の雑誌に連載されている。「文明小史」には「老残遊記」の原稿から盗用した部分があり、この盗用関係を雑誌の発行情況をからめて探求する。済南で行なわれた劉鉄雲国際学会で発表した論文である。
19931201
+05+09初期商務印書館の謎
沢本郁馬 『清末小説』第16号 清末小説研究会1993.12.1
1-50頁。創業から日本・金港堂との合弁をへて、1914年に合弁を解消するまでの初期商務印書館の歴史を述べる。当時の上海地図をもとに所在地の転変と従来の研究の矛盾点を指摘する。
19931202
+04欧陽鉅源の落魄伝説
樽本照雄 『清末小説』第16号 清末小説研究会1993.12.1
65-80頁。欧陽鉅源は花柳病で死亡した、ゆえに落魄した最後だというのが中国での通説である。記録をたどり、丹念に読むと、落魄の事実はないことを論証した。
19931204
+12「老残遊記」和「文明小史」的関係
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第11号 大阪経大学会1993.12.31
31-44頁。中国語。「老残遊記」と「文明小史」は、『繍像小説』という同一の雑誌に連載されている。「文明小史」には「老残遊記」の原稿から盗用した部分があり、この盗用関係を雑誌の発行情況をからめて探求する。済南で行なわれた劉鉄雲国際学会で発表した論文である。
19940102
+10中村忠行・日中比較文学研究論文目録
樽本照雄編 『清末小説から』第32号 清末小説研究会1994.1.1
12-15頁。
19940303
+10資料発掘と立論――魏紹昌『晩清四大小説家』
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第150期記念号 中国文芸研究会1994.3.30
72-83頁。魏紹昌氏が清末の四大小説について書いた文章を集めて出版した。魏紹昌氏が資料を発掘しながら立論している姿勢を評価しつつ、いくつかの間違いを指摘する。
19940702
+04『繍像小説』の刊行時期みたび――張純氏に答える
樽本照雄 『清末小説から』第34号 清末小説研究会1994.7.1
2-7頁。『繍像小説』の終刊は1906年年末だと私は予測している。中国の研究者張純より、1907年だと反論があった。張純の論拠を逐一点検し、それらがすべて誤っていることを考証し再反論する。
19940703
+12晩清小説資料在日本
樽本照雄 熊向東、周榕芳、王継権選編『首届中国近代文学国際学術研討会論文集』南昌・百花洲文芸出版社1994.7
239-250頁。中国語。意外に思われるかもしれないが、日本にも清末小説の資料が存在する。中国から輸入された書物が保存されている場合があり、それが中国大陸では失われていたりするのだ。李伯元の『庚子蘂宮花選』、『官場現形記』の世界繁華報館版、劉鉄雲『老残遊記』二集などなど、いずれも貴重である。
19941001
+05+09鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館1
樽本照雄 『清末小説から』第35号 清末小説研究会1994.10.1
1-8頁。鄭孝胥と長尾雨山の交遊は東京ではじまった。今まで第三者の証言しかなかったこの事実を当事者の日記で裏付ける。二人の最初の出会いから日清戦争により鄭孝胥が帰国するまでの期間を探った。また、鄭孝胥は商務印書館理事を勤めていたことがある。金港堂と商務印書館の合弁を解消する時期に当る。今まで明らかではなかった合弁解消の経過を探索する。
19941101
+12《繍像小説》出版延期問題簡論
樽本照雄 『出版史研究』第2輯 北京・中国書籍出版社1994.11
119-122頁。中国語。『繍像小説』の刊行が遅れていたという説は、重要な問題にもかかわらず中国の学界では注目を引かない。中国語で意見を発表すれば事情が変化する、と汪家熔氏に勧められ、氏の編集する雑誌に要点のみを述べた。
19941201
+04周樹人がいっぱい
樽本照雄 『清末小説』第17号 清末小説研究会1994.12.1
1-11頁。『游戯報』に掲載されたと言われる「周樹人」名義の詩は、何の検証もされることなく魯迅の作品だと考えられている。しかし、周樹人という名前を持つ人物は、なにも魯迅ひとりだけとは限らない。複数の周樹人が当時存在していることを明らかにし、『游戯報』の周樹人を魯迅に直結させることの危険性を指摘する。なお、同じく魯迅の筆名である戎馬書生も複数いることを述べる。
19950101
+05+09鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館2
樽本照雄 『清末小説から』第36号 清末小説研究会1995.1.1
1-8頁。
19950202
+05+09金港堂から商務印書館への投資
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第160号 中国文芸研究会1995.2.28
5-9頁。金港堂から商務印書館へ投資したのは、会社組織というよりも金港堂社主・原亮三郎の個人によってなされたものだ。1979年に関係者の証言によって得られたこの結論が、商務印書館の資料によっても証明された。中国と日本の最新研究論文の紹介も兼ねる。
19950401
+05+09鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館3
樽本照雄 『清末小説から』第37号 清末小説研究会1995.4.1
1-6頁。
19950502
+05+09初期商務印書館の精神分析――金港堂との合弁をめぐって
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第163号 中国文芸研究会1995.5.31
8-13頁。商務印書館は、金港堂との合弁によって心の傷を負った。日本から上海に進出してきそうだった金港堂には太刀打ちできないと判断したからだ。飲み込まれるのではないか、という恐怖感が心の傷となったのである。それ以来、商務印書館は、日本合弁を無視する外向けの顔、商務印書館に有利な合弁であったと同時に日本側が莫大な利益を得たと主張する内向けの顔、その奥に商務印書館の方が大もうけしたという事実を隠す、以上のような精神構造を形作った。
19950701
+05+09鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館4
樽本照雄 『清末小説から』第38号 清末小説研究会1995.7.1
1-9頁。
19950702
+08横浜・新小説社に言論弾圧
沢本郁馬 『清末小説から』第38号 清末小説研究会1995.7.1
9-11頁。横浜・新小説社に中国領事館を通じて清朝政府から言論弾圧があった事実を当時の雑誌『新民叢報』と新聞天津『大公報』の記事をもとにして明らかにする。
19950704
+04経済特科考
樽本照雄 『大阪経大論集』第46巻第2号(通巻226号) 大阪経済大学 1995.7.15
39-68頁。清末には、推薦段階までいって実施されなかった経済特科と実行された経済特科のふたつがある。それぞれの経済特科のいきさつを追跡し、それにかかわった人々(李伯元と呉趼人を含む)について探求する。
19950801
+04李伯元と呉趼人の経済特科
樽本照雄 『太田進先生退休記念中国文学論集』中国文芸研究会1995.8.1
277-294頁。李伯元と呉趼人は、清末に実施された経済特科に推薦されたのか。また、推薦されたのはいつなのか。中国大陸では、各種の意見が提出されているままで事実が明らかになっていない。文学研究者は、この問題について資料探求をしていないように思える。天津『大公報』に推薦者と被推薦者の一覧表が掲載されているのを見つけた。これにより李伯元と呉趼人は、1902年にふたりとも同時に推薦されたことを証明する。
19950802
+12【国際学会報告】李伯元和呉趼人的経済特科
樽本照雄 第15回中国学国際学術大会 ソウル・漢陽大学 韓国 1995.8.26
(中国語)李伯元と呉趼人の経済特科推薦に関して、中国の研究者の論文には、記述の混乱が見られる。その原因は、経済特科が清末の何年に実施されたのか、その実施情況はいかなるものであったのか、事実を把握していないことによる。歴史資料を収集整理し、正確な実施経過を明らかにしたうえで、李伯元と呉趼人の試験へのかかわり方を究明する。日本語で発表した「李伯元と呉趼人の経済特科」および「経済特科考」の内容を合わせて、中国語で書き直したものである。
19950803
+04李伯元、呉趼人と経済特科の意味
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第166号 中国文芸研究会1995.8.31
1-4頁。李伯元と呉趼人が経済特科に推薦されたのにもかかわらず、なぜ、受験しなかったのか。上海には、官にならずとも生きることのできる新聞界がすでに成立していたことを述べる。
19950901
+05+09変化しつつある商務印書館研究の現在――または、商務印書館の被害者意識
樽本照雄 『大阪経大論集』第46巻第3号(通巻227号) 大阪経済大学 1995.9.15
29-44頁。日本との合弁企業であった商務印書館は、その事実を隠そうとしていた。研究者も合弁の事実に触れることはほとんどなかった。外国企業との合弁は、「自力更生」を強調していた政治的潮流に反するものだと考えられたからである。しかし、現在、「改革開放」が強調され外国資本導入が積極的に推し進められている。商務印書館の日本書店との合弁は、その成功例として高く評価されるようになっている。以前と180度の転換といえる。その評価論文を読むと、その奥に商務印書館の被害者意識が隠されていることに気がつくのだ。
19951001
+05+09鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館5完
樽本照雄 『清末小説から』第39号 清末小説研究会1995.10.1
1-11頁。
19951201
+05+09夏瑞芳暗殺――初期商務印書館における夏瑞芳の役割
樽本照雄 『清末小説』第18号 清末小説研究会1995.12.1
1-23頁。商務印書館の創立者のひとりである夏瑞芳は、1914年に暗殺されるまで、商務印書館の社長として経営のカジをとっていた。初期商務印書館の五つの転換点――創業、増資、合弁、投機、合弁解消に見せた夏瑞芳の決断力を中心に述べる。日本・金港堂という同族会社において、社長の原亮三郎は思う存分力を振るった。家内印刷工場からはじまった商務印書館においては、夏瑞芳が独断で事業を推し進めた。そういう日中の出版社が10年にわたって合弁会社であったのは、慶賀すべきことだったのだ。
19960101
劉鉄雲の写真をめぐって
樽本照雄 『清末小説から』第40号 清末小説研究会1996.1.1
1-8頁。これまでに発表された劉鉄雲の写真4種類5枚のそれぞれについて、その特徴と関連などを述べる。1枚の集合写真にうつった人物に異なる名前が与えられている例を提出し、資料考証のうえ正しい名前を特定した。
19960103
【国際学会報告】清末民初的翻訳小説――経過日本到中国来翻訳的小説
樽本照雄 翻訳与創作:中国近代文学国際研討会 香港中文大学 1996.1.5
(中国語)清朝末期に発表された翻訳小説は、創作よりも多い、というのが阿英の主張である。中国の研究者は、それを鵜のみにしたまま引用を続けている。しかし、1万4千件の創作と翻訳を収録したデータベース『清末民初小説目録』を構築した結果、阿英の主張は間違っており、事実は、創作のほうが翻訳よりも多かったことが判明した。当時の特殊な翻訳形態として欧米作品が日本語に翻訳され、それをさらに漢語に翻訳した二重、三重訳があることを実例に基づいて報告する。
19960401
+04呉趼人訳「電術奇談」余話(上)
樽本照雄 『清末小説から』第41号 清末小説研究会1996.4.1
1-5頁。呉趼人「電術奇談」は、日本の菊池幽芳「新聞売子」をもとにして翻訳した恋愛幻想探偵小説である。この原作を私が見出したのは、1985年のことだった。1996年正月、香港中文大学で開催された翻訳国際学会において、配付された資料のなかに呉趼人「電術奇談」に触れるものがあった。しかし、あいかわらず原作不明としている。私の発見よりすでに10年が経過しているにもかかわらずだ。中国大陸における研究について、その間違いの源流をさぐり、私の論文を無断引用する論文もあわせて紹介する。大陸における翻訳小説研究の停滞は、結局のところ資料探索を軽視する傾向がそのひとつの原因なのだ。
19960501
清末民初の翻訳小説――付:日本語経由の欧米漢訳小説一覧
樽本照雄 『大阪経大論集』第47巻第1号(通巻231号) 大阪経済大学 1996.5.15
25-73頁。1911年辛亥革命前後は、中国の年号でいえば清末民初ということになる。阿英が作成した「晩清小説目」は、長らく清末時期の創作と翻訳についての基礎資料となっていた。それによると翻訳が創作を上回っていたという結論である。中国大陸の研究者のみならず、世界の研究者は、誰一人として阿英のこの意見に異論をとなえたことはない。阿英をしのぐ資料を把握しなかったからである。私は、清末のみならず民初に発表された小説の目録を『清末民初小説目録』という形にして世に問うた。雑誌から単行本に至るまで、できるだけ網羅するようつとめたのである。その結果、阿英の統計は、不十分であり、基本的に創作の方が翻訳よりも数の上では多かったことが判明した。また、当時の特殊な情況により、欧米の作品が日本語を経由して中国に流入していた事実を指摘する。附録として作成した「日本語経由の欧米漢訳小説一覧」により具体的に知ることができよう。
19960701
+04呉趼人訳「電術奇談」余話(下)
樽本照雄 『清末小説から』第42号 清末小説研究会1996.7.1
1-5頁。
19960703
+05+09長尾雨山は冤罪である
樽本照雄 『大阪経大論集』第47巻第2号(通巻232号) 大阪経済大学 1996.7.15
1-20頁。東京高等師範学校教授・長尾雨山は、突然、上海に移住し、商務印書館に勤務した。同時代の研究者も、雨山の子息もその原因について一言半句すら言及していない。商務印書館と合弁会社となっていた金港堂を調査する過程で、遭遇したのが教科書疑獄事件である。雨山は、教科書疑獄事件に連座し有罪判決を受けていたのだ。これが雨山が上海の商務印書館に勤務する直接の動機となった。雨山の子息・正和の書いた伝記「長尾雨山」には、事件について口をつぐんでいる。詳細に読んでみて、正和は事件のことを知っていたらしいことが判明した。文章に書いていないところを見ると、隠すべき事件であったことがわかる。あらためて雨山の教科書疑獄事件を調査しなおし、雨山は冤罪であったことを強調する必要を感じこれを書いた。
19960704
+12李伯元和呉趼人的経済特科
樽本照雄 『中国学報』第36輯 韓国中国学会1996.7.20
167-178頁。(中国語)李伯元と呉趼人の経済特科推薦に関して、中国の研究者の論文には、記述の混乱が見られる。その原因は、経済特科が清末の何年に実施されたのか、その実施情況はいかなるものであったのか、事実を把握していないことによる。歴史資料を収集整理し、正確な実施経過を明らかにしたうえで、李伯元と呉趼人の試験へのかかわり方を究明する。日本語で発表した「李伯元と呉趼人の経済特科」および「経済特科考」の内容を合わせて、中国語で書き直したものである。
19960705
+10『相浦杲文庫目録』について
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第177号 中国文芸研究会1996.7.31
1-5頁。相浦杲文庫が大阪外国語大学に設置され、その目録が発行された。一覧することができるので便利ではあるが、影印本と原本の区別がつけられていないという欠点もあるのも事実である。目録がどうあるべきかの例として執筆した。
19960706
清末民初小説研究目録――日本、その他の国篇
樽本照雄 魏紹昌主編『中国近代文学大系』第12集第30巻史料索引集二 上海書店1996.7
997-1092頁。日本、香港、台湾、欧米その他における清末民初小説研究文献目録。
19961001
+05+09長尾雨山の教科書(上)
樽本照雄 『清末小説から』第43号 清末小説研究会1996.10.1
1-8頁。長尾雨山は、上海に移住した後、商務印書館で教科書の編纂をしたことでも有名である。その教科書とは、坪内逍遥原著になる尋常小学校用『国語読本』をもとにした『和文漢訳読本』である。日本語の教科書そのものに漢文で注釈をつけ、巻末に全文を漢訳したものを収録する。従来、紹介されることの少なかった該書を見ることにより、雨山の仕事を検証すると同時に初期商務印書館の印刷物を知ることができる。
19961201
+08劉鉄雲「老残遊記」と黄河(1)
樽本照雄 『清末小説』第19号 清末小説研究会1996.12.1
1-24頁。「老残遊記」には、黄河を象徴する寓話のほか洪水のなまなましい描写がなされている。著者劉鉄雲が黄河治水の経験をもつことによっているのは明らかだ。劉鉄雲と黄河治水については、すでにいくつかの文章が発表されている。しかし、劉鉄雲自身の黄河治水論と実際行動について、必ずしも全体が明らかになっているわけではない。劉鉄雲にとって最初の治水活動参加となった鄭州修復工事までを述べる。
19961202
+05+09商務印書館と中華書局の教科書戦争
沢本郁馬 『清末小説』第19号 清末小説研究会1996.12.1
65-101頁。商務印書館と中華書局が、お互いを競争相手と認識したのには、理由がある。辛亥革命後、中華書局は商務印書館から飛びだした人々によって創立された。差別化するためには、商務印書館を清朝時代を引きずっている古い出版社であると批判することが近道だったのだ。商務印書館と中華書局の対立について、それをいう文章はあるが、実際の資料を提出して説明した文章は、たぶんこれが最初であろう。『申報』に掲載された両社の教科書広告を丹念に読みおこし、その対立を詳述する。
19961203
清末小説研究ガイド97
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第14号 大阪経済大学 1996.12.31
125-191頁。清末小説を研究する人のための資料案内。事典、文学史、研究叢書、作品叢書、目録、重要資料、翻訳関係、出版関係、筆名録、年表、ガイド、暦、年鑑などを紹介する。
19970101
+10橋本循記念会第6回「蘆北賞」受賞のことば
樽本照雄 『清末小説から』第44号 清末小説研究会1997.1.1
1-3頁。橋本循記念会の主宰する「蘆北賞」の研究雑誌部門に受賞した。表彰式でのあいさつを掲載する。
19970102
+05+09長尾雨山の教科書(下)
樽本照雄 『清末小説から』第44号 清末小説研究会1997.1.1
4-11頁。
19970201
+04一字2万5000円――李伯元の誕生日
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第184号 中国文芸研究会1997.2.28
5-7頁。李伯元の誕生日に二説ある。呉趼人説の同治六年四月十八日と魏紹昌のいう同年四月二十九日だ。「二十九日」は、李錫奇の文章を根拠にしたと魏紹昌は、書く。しかし、雑誌初出の該当箇所を確認すると「二十九日」という文字が、ない。結局、呉趼人説が有力となる。この「二十九日」四文字を確認するために、雑誌原物を購入する費用に約10万円かかった。10万円割る四文字、すなわち一字2万5000円なのである。
19970301
+04清末四作家の生卒年月日
樽本照雄 『大阪経大論集』第47巻第6号(通巻236号) 大阪経済大学 1997.3.31
259-274頁。清末の四作家といえば、劉鉄雲、呉趼人、李伯元、曾孟樸である。有名ではあるが、細部を追求していくと不明である部分が存在する。作家研究では基礎となる生卒年月日が一致しない。それぞれの作家について、諸資料をつきあわせ、確実と考えられる月日を提示する。中国での記述の乱れは、研究細部が軽視されていることを物語っているといわざるをえない。
19970401
+15包天笑翻訳原本を探求する
樽本照雄 『清末小説から』第45号 清末小説研究会1997.4.1
1-14頁。中国翻訳小説研究は、充分に行なわれているとはいえない。その原因は、諸外国小説の原本を特定することが困難であることによる。資料が散逸していることもひとつなのだが、ややもすれば翻訳小説研究が軽視される傾向があることも否定できないところだ。地道な努力が要求されるだけにもっと重視されるべき分野だといえよう。ここでは包天笑の訳本をひとつの例として原作探求作業を紹介する。
19970402
『清末民初小説目録』に「新編」とつける理由
樽本照雄 『清末小説から』第45号 清末小説研究会1997.4.1
20頁。旧版『清末民初小説目録』を増補訂正して大幅に収録小説件数を増やした。典拠資料を明記するなど工夫をこらしたため「新編」と名付けることを述べた短文。
19970701
+10半歩大前進(1)――『中国近代文学大系』史料索引集を読む
樽本照雄 『清末小説から』第46号 清末小説研究会1997.7.1
1-9頁。上海書店出版の『中国近代文学大系』史料索引集は、2冊の巨著である。年表、思潮・流派解説、文芸報刊概覧、研究論文目録などにより構成される。清末小説を研究するさいの基本資料が掲載されているということができる。今までに出版された類似の資料集と比較して、どこが新しく、どの部分が不充分であるかを検証する。ひとことで言えば、年表部分には、杜撰な箇所が少なくない。雑誌目録部分は、貴重な資料を入手していながら、本文部分を確認せず目次部分のみによったため間違った記述となっている箇所があることを資料を示して指摘する。
19970801
+10時代を反映する小説目録――『新編清末民初小説目録』のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第190号 中国文芸研究会1997.8.31
16-17頁。阿英「晩清小説目」が現在にいたるまで利用されているのは、その収録小説数の多さによる。阿英の編集方針は、単行本を主とし雑誌をそれにつけくわえるものである。だが、清末が雑誌の時代であることを考えれば、雑誌をこそ主としなければ、清末という時代を反映した小説目録とはならない。阿英の晩清小説目には、その点で決定的な欠陥があるといわざるをえない。その欠点を克服して発行されたのが、『新編清末民初小説目録』にほかならないことをいう。
19970901
+04梁啓超「群治」の読まれ方
樽本照雄 『大阪経大論集』第48巻第3号(通巻239号) 大阪経済大学 1997.9.15
185-205頁。梁啓超の小説理論「論小説与群治之関係」は、日本でも多くの研究者が取り上げてきた。ここでいう「群治」とは、社会の意味にほかならない。ところが該論文の鍵語である「群治」について、多くの異なる日本語があてられてきているのだ。すなわち、社会、社会生活、デモクラシー、政治、社会政策、大衆支配、共和政治、民主政体などである。現在、「群治」には、政治という翻訳語におきかわっているように見える。過去の研究にさかのぼり、政治とすることの誤りを検証する。
19971001
+10半歩大前進(2)――『中国近代文学大系』史料索引集を読む
樽本照雄 『清末小説から』第47号 清末小説研究会1997.10.1
1-11頁
19971002
『新編清末民初小説目録』
樽本照雄 清末小説研究会1997.10.10
B5判、総頁1016。清朝末期から民国初期に発表された小説を、その初出から最近の単行本まで網羅する。『清末民初小説目録』(1988)の増補訂正版。創作と翻訳を合計して約16,000件の作品を収録した本目録は、清末小説研究の基本文献である。著訳編者索引あり。
19971003
(新編清末民初小説目録)序
樽本照雄 『新編清末民初小説目録』清末小説研究会1997.10.10
19971004
(新編清末民初小説目録)新編まえがき
樽本照雄 『新編清末民初小説目録』清末小説研究会1997.10.10
19971005
(新編清末民初小説目録)旧版あとがき
樽本照雄 『新編清末民初小説目録』清末小説研究会1997.10.10
19971006
(新編清末民初小説目録)新編あとがき
樽本照雄 『新編清末民初小説目録』清末小説研究会1997.10.10
19971201
+04梁啓超の「群治」について
樽本照雄 『清末小説』第20号 清末小説研究会1997.12.1
5-29頁。梁啓超の論文「論小説与群治之関係」は、近代小説理論として著名だ。日本では、「群治」を政治と理解して論じる文章が多い。増田渉の日本語翻訳も政治としている。しかし、梁啓超の文章にでてくる「群治」を政治と置き換えると理解できなくなる箇所がある。梁啓超の他の文章に使われた例をさぐり、この「群治」は、当時の日本語の「社会」に影響された語彙であることを述べる。
19971202
+12阿英「晩清小説目」的結構
沢本郁馬 『清末小説』第20号 清末小説研究会1997.12.1
41-62頁。中国語。阿英「晩清小説目」の編集方針は、単行本を主として雑誌に集書範囲をひろげるものであった。しかし、清末が雑誌の時代であったことを考えれば、小説目録の編集方針は、単行本よりも雑誌を主対象としなければならない。その結果、阿英「晩清小説目」の収集が不徹底であったこと、当時の小説全体からすれば、わずかに38%しかカバーしていないことを資料をもとにして証明する。樽本照雄「阿英「晩清小説目」の構造」の中国語版である。論旨、使用資料は同様だが、引用文などが異なる。
19971203
+08劉鉄雲「老残遊記」と黄河(2)
樽本照雄 『清末小説』第20号 清末小説研究会1997.12.1
103-123頁。中国の専門論文でも言及されることの少ない劉成忠『河防芻議』から見ていく。劉鉄雲の父・成忠の黄河治水論は、鉄雲に大きな影響をあたえたはずだ。劉鉄雲による呉大澂への献策は、劉成忠の著作からヒントを得たものであることを指摘する。さらに、鄭州治水工事成功後の劉鉄雲官位委譲説について検討を加え、新しい仮説を提出する。すなわち、劉鉄雲が官位を断わったとしても、それを兄に委譲したのではない。兄は、鄭州工事に献金をし、それにより官位を得たのである。
19971204
+10厳薇青氏のこと
樽本照雄 『中国文芸研究会会報』第192号 中国文芸研究会1997.12.30
1-4頁。「老残遊記」の研究でも有名な厳薇青氏が死去された。淮安、済南での学会でお会いした思い出などを書く。研究に厳格であろうとすれば政治的に批判されざるをえない当時の中国の情況にいやおうもなく目が向く。痛ましい。
19980101
民国初期における小説発表件数の推移
樽本照雄 『清末小説から』第48号 清末小説研究会1998.1.1
1-4頁。民国初期に発表された小説のうち、創作と翻訳の割合をさぐる。清末は、翻訳のほうが創作よりも多く発表された、というのが阿英の主張であった。民国を調査すれば、どうなるか。『新編清末民初小説目録』のデータを基礎に調べると、翻訳よりも創作が圧倒的に多く発表されている事実が判明した。これは、私の以前の調査とは反対の結果である。資料の多寡により結果が違ってくるのはしかたがない。
19980102
+10半歩大前進(3)――『中国近代文学大系』史料索引集を読む
樽本照雄 『清末小説から』第48号 清末小説研究会1998.1.1
9-16頁
19980103
『清末民初小説年表』の構想
樽本照雄 『清末小説から』第48号 清末小説研究会1998.1.1
19980201
+10中島利郎『晩清小説研叢』について
樽本照雄 『野草』第61号 中国文芸研究会1998.2.1
76-85頁。清末小説の専著である中島利郎『晩清小説研叢』を書評する。中島の研究歴と研究方針を述べ、清末研究の中仕切りとして著書が存在していることを明らかにする。台湾文学研究とはたして並立して清末小説研究が継続されるかどうかは、今後の活動にかかっている。興味深く見守りたい。
19980401
阿英説「翻訳は創作より多い」は事実か
樽本照雄 『清末小説から』第49号 清末小説研究会1998.4.1
1-8頁。清末小説全体を「翻訳は創作より多い」とくくったのは、阿英である。豊富な資料にもとづいた発言だった。ゆえに中国の研究者は、以後、右にならったのだ。しかし、阿英の編集した目録を上回る『新編清末民初小説目録』を集計しなおせば、阿英の発言を訂正しなければならなくなる。すなわち、「翻訳は創作より多い」は、事実ではないのだ。
19980402
+10「清末民初小説書系」の発行
樽本照雄 『清末小説から』第49号 清末小説研究会1998.4.1
11-12頁。短篇を内容別に分類して10巻12冊にまとめて編集した刊行物。831篇を収録する。雑誌そのものを見ることが困難になっている状況を考えれば、まことに便利な出版物だということができる。
19980403
+05+09長尾雨山の帰国
樽本照雄 『書論』第30号 書論研究会1998.4.30
183-186頁。長尾雨山の上海行きから帰国を伝える新聞記事までを紹介する。
19980500
A STATISTICAL SURVEY OF TRANSLATED FICTION 1840-1920
TARUMOTO TERUO, TRANSLATED BY D.E.POLLARD,“TRANSLATIION AND CREATION”JOHN BENJAMINS PUBLISHING COMPANY, 1998
37-42頁。1840-1920年間に中国語訳された欧米の小説について、主としてその数量的変遷を年代順に追う。1996年の香港国際学会での中国語発表論文をポラード教授が要約して英訳したもの。
19980701
梁啓超の種本
樽本照雄 『清末小説から』第50号 清末小説研究会1998.7.1
1-13頁。梁啓超の論文「伝播文明三利器」は、彼が日本の政治小説について研究して書いたものだと考えられてきた。しかし、それには中国語の種本があることを夏暁虹が指摘する。私は、さらに一歩進めて日本語原文を提出し、梁啓超がその日本語を翻訳したことを明らかにする。また、『太陽』雑誌に発表された梁啓超との会見記を発掘し、当時の梁啓超の日本語理解度についても言及する。
19980702
『新編清末民初小説目録』書評再録にあたって
樽本照雄 『清末小説から』第50号附録 清末小説研究会1998.7.1
1-2頁。
19980801
+12不要軽視小事
樽本照雄 『読書』1998年第8期 1998.8
22頁。中国語。呉趼人「二十年目睹之怪現状」の発行年について阿英をはじめ専門家の全員が誤って記述することを指摘する。誤記を「小事」として考えるならば、なぜ全員が誤るのか。先人の記述を丸写しにしただけというのは、研究の姿勢にも関係するのではないかという意味をもたせている。
19980901
+10文献をあつかう姿勢――『呉趼人全集』を例として
樽本照雄 『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻245号) 大阪経済大学 1998.9.15
209-228頁。『呉趼人全集』に収録された作品を点検する過程で、重要作品である「二十年目睹之怪現状」の発行年に記述間違いがあることを発見した。調べると中国の専門家すなわち阿英、魏紹昌、王俊年、盧叔度、裴效維たちの全員が誤記をしている。重要版本について間違えるのは、資料をあつかう姿勢に問題があることを指摘する。また、裴效維が編集した全集第10巻の「呉趼人研究資料彙編」のいくつかについて検討をくわえる。
19980902
+04『清末小説探索』
樽本照雄 法律文化社1998.9.20 大阪経済大学研究叢書第34冊
A5判、総333頁。清末小説に関する論文21篇を収録する。各論文の冒頭に+04をつける。劉鉄雲、李伯元、呉趼人、梁啓超、周樹人、『繍像小説』について論じる。「老残遊記」批判の歴史的意味、李伯元と呉趼人が受験したといわれる経済特科の詳細、梁啓超の文学改良論におけるキーワード「群治」の内容、『游戯報』に詩を投稿した周樹人は、はたして魯迅なのかどうか、すべての論文は、新資料、あるいは資料のより深い解読によって立論している。
19980903
+04#07(『清末小説探索』)あとがき
樽本照雄 法律文化社1998.9.20 大阪経済大学研究叢書第34冊
313-317頁。
19980904
+04(『清末小説探索』)索引
樽本照雄 法律文化社1998.9.20 大阪経済大学研究叢書第34冊
319-333頁
19981001
+10劉徳隆『劉鶚散論』序
樽本照雄 『清末小説から』第51号 清末小説研究会1998.10.1
1-5頁。劉徳隆著『劉鶚散論』(雲南人民出版社1998.3)のために書いた序文。日本語で原稿を作成し、それを漢語に翻訳したものが該書には収録されている。劉徳隆の研究業績と知りあう経緯を紹介する。
19981002
+10探求書――『和文漢読法』ほか
樽本照雄 『清末小説から』第51号 清末小説研究会1998.10.1
0-11頁。日本で発行されているにもかかわらず現在にいたるまで捜し当てることのできない書籍、雑誌を紹介する。梁啓超、羅普共著『和文漢読法』、雑誌『新小説』、『白話』、『十五小豪傑』などである。中国の研究者から、あるはずだ、と問われるが、探してないものはないのだ。
19981201
+10本格的翻訳文学研究の出現――郭延礼『中国近代翻訳文学概論』について
沢本香子 『清末小説』第21号 清末小説研究会1998.12.1
1-15頁。沢本香子名義で発表。郭延礼の翻訳文学研究が、参考文献を海外に求めており研究の成果が深く広いことを評価する。内容から分類して分野別に記述する第1部と翻訳者個人からその翻訳業績を総括する第2部によって構成されている。翻訳文学全体の流れを概説しながら個別の翻訳に言及しており立体的な記述が理解を助ける。さらに、翻訳原本、その作者についても判明している限りは原文でも表示しているのが役立つ。それができたのも日本、香港など外国の研究の成果を取り入れたからだ。
19981202
+10李伯元研究の広がりと深化――王学鈞編『李伯元全集』第5巻の特色
沢本郁馬 『清末小説』第21号 清末小説研究会1998.12.1
16-42頁。沢本郁馬名義で発表。王学鈞が編集した李伯元研究関係部分(『李伯元全集』第5巻)の充実した内容を紹介する。年譜では、問題点をほぼすべて明らかにしてその結論は材料に基づいた説得力のあるものとなっている。たとえば、李伯元の生年月日に2説あるが、どちらかを無視せず決定的資料が欠けていることをのべて併記する箇所などがそれにあたる。研究文献目録も海外の論文を含んでおり充実しているといえるだろう。それができたのは、王学鈞が日本など海外の研究動向に目をむけているからだ。
19981203
+05+09商務印書館のライバル――中国図書公司の場合
樽本照雄 『清末小説』第21号 清末小説研究会1998.12.1
43-65頁。創業間もない商務印書館に強力なライバル・中国図書公司が出現した。その背景を利権回収運動だと指摘する論者がいる。はたしてそれが当っているのかどうかを検討するのが本論文の目的のひとつである。たしかに、歴史的な流れとして利権回収運動があった。また、中国図書公司の発起人・席子佩は設立趣意書にそのようにも表現する。だが、席子佩その人は、申報館の出資人であってその申報館はイギリス人の所有になっていた。つまり、自らは外国人との合弁会社に関わっていながら、商務印書館の日本との合弁を批判するという矛盾をかかえていた人物なのだ。それを文字通りに信用することはできない。利権回収といっても口先だけのスローガンではなかったか。
19981204
+10『明清小説研究』の清末小説研究
樽本照雄 『清末小説』第21号 清末小説研究会1998.12.1
141-142頁。『明清小説研究』発行第50期を目前にし、それに掲げられた清末小説関係論文について紹介する。目録を掲げた。これは、私の主宰する『清末小説』が20号をむかえるからお互いに紹介しあおうという江蘇省社会科学院文学研究所からの要請で書いたものだ。『明清小説研究』2000年第3、4期に王学鈞「樽本照雄与清末小説研究」が掲載された。
19990101
+10発言のあと――「不要軽視小事」のこと
樽本照雄 『清末小説から』第52号 清末小説研究会1999.1.1
1-4頁。北京『読書』1998年第8期(1998.8)に発表した中国語の文章――すなわち、呉趼人「二十年目睹之怪現状」の発行年の間違いを阿英からはじまって中国の専門家の全員が踏襲していることをいう。その指摘に対する内外の反応を述べる。
19990401
+10『新加坡国立大学中文図書館蔵中国明清通俗小説書目提要』の清末小説部分について
樽本照雄 『清末小説から』第53号 清末小説研究会1999.4.1
1-6頁。「シンガポール書目」と略称するが、これに収録された清末小説についての記述を評論する。それほど珍しい版本を収蔵するわけではない。中国大陸と台湾で出版された叢書を主体とする。それぞれの版本について説明をしているが、それにも濃淡がある。拠った資料は、『中国通俗小説総目提要』『中国古代小説百科全書』のようだ。その説明の仕方について2例を挙げて不備を指摘する。そのいずれもが2次資料を鵜のみにした誤りである。正誤表を附録につける。
19990402
鱒澤彰夫氏へ
樽本照雄 『清末小説から』第53号 清末小説研究会1999.4.1
19-21頁。樽本「商務印書館のライバル――中国図書公司の場合」に関連して、鱒澤氏が樽本の個人攻撃を行なった。それへの反論。
19990403
正誤表の訂正
沢本香子 『清末小説から』第53号 清末小説研究会1999.4.1
23頁。郭延礼『中国近代翻訳文学概論』の書評について正誤表を掲載した。その訂正。
19990404
笠慶麟氏の反論
樽本照雄 『清末小説から』第53号 清末小説研究会1999.4.1
23-24頁。「二十年目睹之怪現状」の刊年について阿英が誤記をしていると指摘した。それは違う。阿英は間違っていないと中国の研究者が文章を発表した。その指摘が間違っていると再度反論する。反対立論の骨子を述べたもの。
19990701
小説目録の旧暦新暦問題
樽本照雄 『清末小説から』第54号 清末小説研究会1999.7.1
1-6頁。清末小説の発行年月を表記する場合、年は新暦、月は旧暦をそれぞれ使用するという奇妙な習慣が中国の学界にある。目録類は、二次資料として重要な役割を果たしているにもかかわらず、この奇妙な新暦旧暦混用を採用している例がある。その例を5件あげてここでも注意を喚起する。
19990702
『中国近代小説目録』の出現――附:『中国近代小説目録』疑問表
沢本香子 『清末小説から』第54号 清末小説研究会1999.7.1
10-19頁。「中国近代小説大系」シリーズ80巻の1冊として編纂されたのが『中国近代小説目録』である。阿英「晩清小説目」以来の本格的小説目録だ。1840-1919年に発表された、長篇、中編、短編小説を網羅的に収録する。発行年月日まで採録し、旧暦は新暦に換算している。収録作品の多さと、記述の詳細さは、阿英をはるかに超えている。まさに画期的といっていい。付言すれば、今後の改良点として人名索引の作成がある。また、翻訳小説の目録作成が期待される。樽本照雄『清末民初小説目録』を引き写しただけの部分があるのは残念だが、しかし、中国大陸でこれほどの小説目録が出版されたこと自体に大いなる意味を見出したい。
19990703
阿英「晩清小説目」の旧暦新暦問題――竺慶麟氏への反論をかねて――
樽本照雄 『大阪経大論集』第50巻第1号(通巻249号) 大阪経済大学 1999.7.8
379-387頁。竺慶麟が発表した文章に対する反論として書いた。すなわち、阿英は、出版物の刊年表記に旧暦と新暦を混在させており(新暦旧暦混用という)、新暦に換算したように見えるが、実際は、書き誤っていることを指摘する。阿英のこの新暦旧暦混用の事実を竺慶麟氏は知らないのだ。阿英が「晩清小説目」を編纂する時に採用したのが、この新暦旧暦混用である。後々の誤りの源がここであることをあわせて指摘し、注意を喚起する。
19990704
+10拠るべき研究文献――劉大紳「関於老残遊記」の場合
樽本照雄 『大阪経大論集』第50巻第2号(通巻250号) 大阪経済大学 1999.7.15
49-56頁。劉鉄雲「老残遊記」を研究するうえで基本的文献のひとつが、息子・劉大紳によって書かれた「関於老残遊記」である。親族でしか書くことのできない事実を盛りこんだ貴重な文献だということができる。伝統的な考えが支配していた当時の文芸界において、小説の著者は、わざと自分自身を読者から隠す傾向があった。「老残遊記」も発表当時は、洪都百錬生あるいは鴻都百錬生という筆名で発表されたことからも理解できる。ゆえに風聞、伝説がひろまっていた。劉大紳の「関於老残遊記」は、洪都百錬生が劉鉄雲であることを明らかにしただけでなく、一族の歴史、作品に言及された事柄について詳細な証言を残した。貴重な文献であるから、後に資料集などに転載され、合計3回にわたり読者の目に触れることになった。ところが、転載のたびに文章が一部分変更されている。比較検討した結果、魏紹昌『老残遊記資料』所収の文章に依拠しつつ、劉徳隆、朱禧、劉徳平『劉鶚及老残遊記資料』を参照するのがよい、という結論になる。
19991001
+10あるがままの小説年表――『清末民初小説年表』の構想
樽本照雄 『清末小説から』第55号 1999.10.1
1-6頁。1840-1919年にわたって発表された創作と翻訳の小説年表を構想する。網羅主義により作品を配列する小説年表は、その規模の大きさで空前である。日本で中国小説の年表を作成するには、原本を所蔵する機関、個人が少ない事実から逃れるわけにはいかない。だが、必要な工具書は、やはり自分で作成しなければならない。限界を知ったうえでの決断なのである。『新編清末民初小説目録』と姉妹篇を構成するのも特徴のひとつだ。
19991002
『清末民初小説年表』
樽本照雄 清末小説研究会1999.10.10
B5判、総660頁。1840-1919年に発表された創作小説と翻訳小説の年表。該当時期に発表された小説の総てを収録する。雑誌初出と単行本初版を掲載し、翻訳については原作と原作者を判明しているものは注記する。類を見ないほど詳細な年表だ。作品名索引、著訳編者索引が便利。『新編清末民初小説目録』の姉妹篇。
19991003
(『清末民初小説年表』)本書の使い方
樽本照雄 『清末民初小説年表』清末小説研究会1999.10.10
5-10頁
19991004
(『清末民初小説年表』)あとがき
樽本照雄 『清末民初小説年表』清末小説研究会1999.10.10
1-2頁
19991005
清末小説研究の現状――日本で研究を行なう意味
樽本照雄 清末小説研究会ホームページ1999.10.2
清末小説研究会ホームページに掲げた。印刷はしていない。日本における清末小説研究の実例を、私自身の経験のなかから紹介する。清末小説研究は、中国国内の研究のワクをすでにこえて世界各国で進められている。資料の発掘整理の分野でも、中国国内にだけ目を向けていては、不十分である。この事実に気づいている研究者とそうでない人との間には、まさに情報格差が生じていることをもあわせて指摘する。
19991201
+15魯迅「斯巴達之魂」について
樽本照雄 『清末小説』第22号 清末小説研究会1999.12.1
1-19頁。魯迅「斯巴達之魂」は、翻訳か創作かの議論がある。作品そのものを検討した結果、複数の日本語文献をもとにして編訳したものに魯迅の創作をプラスした作品だと主張する。その創作部分は、セレネという女性に集中している。魯迅の意図は、自らの死をもって敵前逃亡をした夫を諌めるというスパルタ女性の象徴を創造するところにあった。だが、ヘロドトス、プルタルコスの著作を知れば、スパルタには存在してはならない行動をとる女性であった。つまり、魯迅が創造したセレナという女性は、スパルタ人ではなく、中国人そのものであったと考えざるをえない。当時の中国人留学生が、共感を覚えたのもセレナが中国人であったからだ。歴史上のスパルタを破壊してまでも、中国人を登場させたのは、魯迅の大誤算であったであろう。
19991202
+15魯迅「造人術」の原作
神田一三 『清末小説』第22号 清末小説研究会1999.12.1
20-38頁。魯迅の翻訳「造人術」について創作であるという意見が提出されている。原作が見つからないから創作だという不思議な論拠である。だが、日本語原文が存在しているのだ。ルイ・ストロング著、原抱一庵訳「造人術」である。魯迅の翻訳は、日本語原文に忠実な漢語訳であることを述べ、作品自体は、高く評価できる種類のものでないことを説明する。附録として、原抱一庵主人の翻訳と魯迅の翻訳(『女子世界』原載)を収録する。
19991203
+10李錫奇『南亭回憶録』のこと
沢本郁馬 『清末小説』第22号 清末小説研究会1999.12.1
39-52頁。『南亭回憶録』とは、李伯元の子孫・李錫奇による李伯元の研究資料集である。李錫奇は、李伯元を見知っているというのが有名だ。中国では、それを理由にしてその文章は特別扱いを受けている。1960年代に作成されたこの資料集の原稿が、1998年、子孫の手によって複写出版された。出版の経緯、李錫奇自身のこと、資料的価値について評論する。結論は、『游戯報』から採取した李伯元遺稿は、めずらしい作品を収録している。しかし、研究水準は1960年代のままである。しかたのないことかもしれないが、出版の遅れはいかんともしがたい。
19991204
+08劉鉄雲「老残遊記」と黄河(3)
樽本照雄 『清末小説』第22号 清末小説研究会1999.12.1
87-110頁。鄭州工事成功後をあつかう。劉鉄雲は、黄河地図を作成する事業に提調として参加した。「河工稟稿」によって測量調査活動をうかがい、その活動成果である『山東直隷河南三省黄河全図』の実物を示す。中国の研究家の誰一人として全図の原物を見ていないことを、書名が間違っていることを根拠に指摘する。
19991205
+10『中国近現代通俗文学史』の出版予告
沢本香子 『清末小説』第22号 清末小説研究会1999.12.1
125頁。『中国近現代通俗文学史』の出版予告に紹介文をつけた。
19991207
黄河、鄭州に決壊す――「老残遊記」紀行
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第17号 大阪経済大学1999.12.31
137-148頁。1887-88年に鄭州で決壊した黄河の治水工事に参加したのが、のち「老残遊記」の執筆で有名になる劉鉄雲であった。長期間にわたる治水工事を経て、ようやく決壊箇所の修復に成功する。直接の責任者であった河東河道総督の呉大澂は、重責を果たした喜びを「鄭工合竜」と文字を刻んだ印を作ることによって表わしたほどだ。本稿は、111年後、鄭州に当時の黄河決壊箇所を訪問した報告書である。泥砂が堆積しやすい黄河の性情からして、河の流れが変化しており、砂州が農耕地になるなど、往事の面影はない。ただ、その下流に比較して何倍もの河幅の広さが、氾濫防止策の困難さを見る者に容易に理解させる。また、河の流れに突き出す形の堤防が、黄河独特の方式であることも確認することができた。
20000101
+15魯迅「造人術」の原作・補遺――英文原作の秘密
神田一三 『清末小説から』第56号 2000.1.1
1-12頁。魯迅訳「造人術」の英文原作について述べる。ストロングの原作に登場する人工生命=怪物は、当時のアメリカに存在した黒人と中国人の蔑視を背景にして創作された事実がある。魯迅は、中国人を侮蔑する作品を一生懸命に漢訳していたことになる。
20000102
+05+09上海で報道された日本・教科書疑獄事件
樽本照雄 『清末小説から』第56号 2000.1.1
19-21頁。明治35(1902)年、日本の教育界をゆるがせた教科書疑獄事件は、その反響の大きさを証明するかのように上海でも報道されていた。『申報』の記事を追跡して、ほとんど同時期に上海においても金港堂、長尾雨山らの実名が報道されていたことを明らかにする。商務印書館が、金港堂との合弁を決定した後の事件報道であると予測される。商務印書館関係者は、深い興味を抱いて新聞を読んでいたにちがいないのだ。
20000201
+14近代日中出版社交流の謎
樽本照雄 『平成11年度 大阪経済大学市民教養講座――講義のまとめ』大阪市教育委員会 刊年不記(2000.2)
9-12頁。1999.6.12/6.19の2回、大阪経済大学市民教養講座で講演したものの要約。上海・商務印書館が、日本・金港堂との合弁をなぜ秘密にしたかったのか、その原因を明らかにする。すなわち、創業まもない商務印書館は、業績不振におちいった時、かねてから中国大陸進出を準備していた日本の金港堂と合弁せざるを得ない情況にあった。外国資本に呑み込まれるのではないか、という恐怖心がその後の順調な営業発展の奥底に抑圧される結果となる。外国企業の資本が入っている事実が、同業者からの攻撃材料になるという時代背景が存在した。これが、金港堂との合弁を秘密にしたがる理由である。その上海へ漢学者で有名な長尾雨山が教科書編集に参画した。高等師範学校教授の椅子を捨ててまで、なぜ、雨山は上海へ「移住」したのか。その原因は、雨山を巻き込んだ教科書疑獄事件があった。収賄容疑で拘引され、有罪判決が下ったためである。今まで、謎として誰も解明することのできなかった事柄について説明したことの記録である。
20000301
+15トルストイ最初の漢訳小説――「枕戈記」について
樽本照雄 『大阪経大論集』第50巻第6号(通巻254号) 大阪経済大学 2000.3.31
383-394頁。トルストイ最初の漢訳小説は、『托氏宗教小説』だという通説がある。阿英が断定し、王錦厚、戈宝権、郭延礼ら中国の研究者のすべてが、それに従う。しかし、『托氏宗教小説』よりも早く発表されている作品がある。すなわち「枕戈記」であり、『教育世界』に掲載された。二葉亭四迷の日本語訳から漢訳したものである。日本語と漢訳の本文を比較対照しながら、漢訳の誤訳、省略、正確なことを検証する。
20000401
+10橋本循記念会第9回「蘆北賞」受賞のことば
樽本照雄 『清末小説から』第57号 清末小説研究会2000.4.1
1-3頁。『新編清末民初小説目録』および『清末民初小説年表』の編集発行により、蘆北賞(学術出版部門)を受賞した。受賞式でのことば。
20000402
『繍像小説』の重版――小説雑誌の重版問題1
樽本照雄 『清末小説から』第57号 清末小説研究会2000.4.1
3-12頁。清末時期に創刊された小説専門雑誌は、重版された事実がある。読者に歓迎された証拠だ。しかし、研究界において雑誌の繁栄を指摘するのは普通ではあっても、その重版をいう研究者は、多くはない。その理由を考えるに、原本そのものを手元に置いて調査研究する人がいないためだろう。原本に当たれば、創刊号と称するものの中に、表紙が異なる場合がある。原稿募集広告を例にとれば、初版創刊号には掲載されていないが、重版創刊号には、掲載されていることがある。重版の事実を知らず、重版にもとづいて創刊号から原稿募集を行なっていたと記述するならば、それは事実から離れる。重版の事実を『繍像小説』に紹介する。原稿募集広告は、当時の文人に原稿料制度が形成されつつあることを知らせることにもなった。職業作家の誕生を経済的に成立させた条件でもある。まさに中国文学史上、空前のできごとでもあるのだ。
20000403
+10『図画日報』影印版のこと――附:『図画日報』所載小説目録
沢本郁馬 『清末小説から』第57号 清末小説研究会2000.4.1
13-16頁。1909-1910年に発行されたグラフ雑誌である『図画日報』が影印出版された。便利ではある。しかし、編集上、致命的な欠陥がある。発行年月日を明らかにしない。該当頁を影印していないのである。所有する原本を根拠にして所載小説の発行年月日を明記して目録を作成した。
20000701
『新小説』の重版――小説雑誌の重版問題2
樽本照雄 『清末小説から』第58号 清末小説研究会2000.7.1
1-11頁。『新小説』が重版されていることを知る研究者は、多くない。雑誌の原本を手にする機会が少ないためらしい。重版を判断する手掛かりのひとつは、表紙の違いだ。しかし、上海書店の影印本は、それを無視して重版の表紙で統一する。重版に気づく研究者が少ない理由となっている。『新小説』が重版された事実を広告ページに変化があること、および『新民叢報』に掲載された『新小説』についての広告(一部)を資料にして証明する。
20000702
致中国近現代通俗文学国際研討会
樽本照雄著 包敏訳 『《中国近現代通俗文学史》国際学術討論会会議手冊』蘇州大学2000.7.28
(中国語)15-16頁。2000年7月、蘇州大学で開催された「《中国近現代通俗文学史》国際学術討論会」へのメッセージ。過去において、中国近現代通俗文学研究が冷遇されていた影響を受けて日本でも研究が進まなかったこと、それゆえに私が研究に志したことをのべ、日本における研究成果の一部を披露する。
20000901
+05『初期商務印書館研究』
樽本照雄 清末小説研究会2000.9.9
A5判、380頁。商務印書館が上海で創業した時から、日本・金港堂との合弁をへてそれを解消するまでを記述する。第1章商務印書館、第2章金港堂、第3章日中合弁、第4章初期商務印書館の精神分析に分ける。商務印書館が金港堂と合弁する経過を詳細に描いたのは、本書が世界最初である。
20000902
+05#07+09(『初期商務印書館研究』)あとがき
樽本照雄 『初期商務印書館研究』清末小説研究会2000.9.9
324-331頁
20000903
+05+09(『初期商務印書館研究』)文献一覧
樽本照雄 『初期商務印書館研究』清末小説研究会2000.9.9
332-366頁
20000904
+05(『初期商務印書館研究』)索引
樽本照雄 『初期商務印書館研究』清末小説研究会2000.9.9
367-378頁
20001001
+15「航海少年」原作探索
樽本照雄 『清末小説から』第59号 清末小説研究会2000.10.1
1-8頁。漢訳「航海少年」は、桜井鴎村の日本語訳『航海少年』にもとづいている。ところが、それらの原作が何であるのか、日本の児童文学研究界において長年の謎であった。20年近くの原作探索を経て、ようやくJames Grant“Jack Manly”1861であると判明した。それまでのいきさつを報告する。
20001201
+08劉鉄雲「老残遊記」と黄河(4完)
樽本照雄 『清末小説』第23号 清末小説研究会2000.12.1
1-46頁。劉鉄雲の黄河治水策の専門書である「治河七説」を検討する。これは黄河地図を作成する作業に参加しながら執筆した「治河五説」と、実際に黄河堤防事業に参加したあとで書いた「治河続説」のふたつを統合したものだ。実際の水利事業に参加した経験が、劉鉄雲の治水策に変化を与えている。その主張は、「泥砂の押し出し」と「減水」に尽きる。劉鉄雲の黄河治水専門書の内容を検討しつつ、黄河流域における彼の足取りを追跡してみれば、劉鉄雲の書いた「老残遊記」には、その経験および治水論の総てが反映されているわけではない事実が判明した。過去における証言、研究は、「老残遊記」のなかで述べられた黄河治水論をもって劉鉄雲の方法だと認定してきた。立論が逆なのだ。虚構を事実だと考えたにすぎない。ほとんどの研究者が、劉鉄雲の「治河七説」すら詳細に検討していないことがわかった。劉鉄雲の主張したという「水を束ねて泥砂を押し出す(束水<以>攻沙)」も、実は、「老残遊記」には見られない。劉大紳、羅振玉が使用しているにすぎない。結局は、「老残遊記」には、劉鉄雲の治水論を構成するふたつの柱のうち、片方しか書き込まれていないなど、不十分な部分がいくつか見られるという驚くべき結論に到達する。
20001202
「救劫伝」の作者艮廬居士は、胡思敬か?――附:「救劫伝」第12-16回
沢本香子 『清末小説』第23号 清末小説研究会2000.12.1
47-96頁。義和団事件を主題とする「救劫伝」の作者・艮廬居士について、胡思敬説と張仲清説のふたつがある。艮廬居士は胡思敬である、と阿英が記述しているため、大多数の研究者がそれを信じている。しかし、各種伝記、筆名録を調査しても胡思敬は艮廬居士という号を持っていない。阿英が決定したように考えられている「胡思敬(艮廬居士)」は、実は、退廬居士の誤植であった。誤植が信じられて現在に至っている。これが、私の結論である。
20001204
+10清末翻訳小説研究周辺――英国図書館における文献検索の実例
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第18号 2000.12.31
145-155頁。桜井鴎村が翻訳した少年冒険譚シリーズは、英国の作品である。しかし、ながくそれらの原作がなにであるか不明であった。シリーズのうちのいくつかは、漢訳されてもいる。その漢訳されている原作を英国図書館で確認するまでを述べる。新しくなった英国図書館の書籍検索の手順についても紹介する。
20010101
『游戯報』の周樹人
樽本照雄 『清末小説から』第60号 清末小説研究会2001.1.1
1-5頁。『游戯報』に周樹人の名前が掲載されているのは有名な事実だ。周樹人は魯迅の本名である。ゆえに『游戯報』に魯迅は投稿したことがある、という定説になっている。しかし、『游戯報』の周樹人がまぎれもなく魯迅のことである証拠は、今まで誰も提出していないのだ。『游戯報』の原物さえ提示されたこともない。私は、以前から『游戯報』の周樹人が魯迅である証拠を出すように要求してきた。このたび入手した『游戯報』の該当部分を検討し、やはり『游戯報』の周樹人が魯迅である確証は存在していないことを明らかにする。
20010102
『月月小説』ほかの重版――小説雑誌の重版問題3
樽本照雄 『清末小説から』第60号 清末小説研究会2001.1.1
8-15頁。『月月小説』と『小説林』について初版と重版の違いを検証する。
20010103
+06+13漢訳コナン・ドイル研究小史
樽本照雄 『大阪経大論集』第51巻第5号(通巻259号)2001.1.15
175-203頁。中国におけるコナン・ドイル研究を、1920年代から現在にいたるまで概観する。中国でドイルの小説、ことにシャーロック・ホームズ物語が盛んに翻訳された時期があった。にもかかわらず、その事実が無視されるようになるのは、なぜか。1960年に北京と上海で出版された二つの文学史が、漢訳探偵小説を害毒を流すものだと批判をしたのが原因である。10年の「文革」をへて、歴史を正視し、翻訳探偵小説の隆盛をありのままに記述するようになったのは、1980年代まで待たなければならなかった。条件が整わなかったのだ。日本の中村忠行論文が画期的な業績を上げたことを強調し、香港の研究書にも目配りしながら、中国におけるドイル研究をふりかえる。
20010301
+07+13コナン・ドイル作「唇のねじれた男」の日訳と漢訳
樽本照雄 『大阪経大論集』第51巻第6号(通巻260号)2001.3.31
89-110頁。ドイルのホームズ物語のなかで、最初に日本語訳されたのは「唇のねじれた男」だった。日訳名「乞食道楽」で明治27(1894)年のことだ。同作品の漢訳は、「偽乞丐案」といい『続包探案』(1902)に収録されている。このふたつの翻訳を比較対照した結果、漢訳の方が日訳よりもずっと英文原作に忠実に翻訳してあることが判明した。
20010401
『華生包探案』は誤訳である――漢訳ホームズ物語「采〓糸恒}」について
樽本照雄 『清末小説から』第61号 清末小説研究会2001.4.1
1-8頁。『華生包探案』で有名なコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語である。しかし、その漢訳題名を分析すれば、「華生」はワトスンを、「包探」は探偵を意味する。ゆえに『ワトスン探偵事件』を意味し、本来のホームズ探偵事件とは異なってしまう。これは、あきらかに誤訳であるにもかかわらず、その誤訳であることを指摘した研究者は、存在しない。誤りなのに、「華生」の探偵物語ならば、この「華生」こそホームズであるとする漢訳作品が出現する。1914年『七襄』第2−4期に連載された「采〓糸恒}」がそれである。原作は、「まだらの紐 The Adventure of the Speckled Band」だ。ホームズを華生とし、いくつかの省略、加筆はあるものの、その漢訳の質を検討すれば、優良可のうちの「良」にあたる。
20010501
+06+15贋作ホームズ失敗物語――陳景韓、包天笑から劉半農、陳小蝶へ
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第1号(通巻261号)2001.5.15
229-254頁。ドイルのホームズ物語が中国の読者に歓迎されたことを示すひとつの証拠は、贋作が数多く制作されたことだ。清末に発表された陳景韓、包天笑から民国の劉半農、陳小蝶らが書いた贋作ホームズ物語の共通点は、ホームズがことごとく失敗するところにある。特に、陳包劉の三名が創作した贋作ホームズは、上海で失敗することを共有する。複数の作者が、ひとつの主題で連作を発表したのだ。陳包の連作は、ホームズが異文化である上海で失敗するところから、いわば比較文化論的小説になっている。しかし、それを引き継いだ劉の作品は、ホームズを侮辱するだけにとどまった。
20010701
+08『繍像小説』編者問題の結末
樽本照雄 『清末小説から』第62号 2001.7.1
1-8頁。『繍像小説』の主編は李伯元か否か。1984年以来続いてきた国際的な学術論争である。国際的というのは、中国国内にとどまらず、討論に参加したのが世界中の研究者だからだ。李伯元否定説は、状況証拠、新資料の発見にもかかわらず、提唱者の汪家熔自身が納得しないまま、現在に至っている。なぜ汪家熔が納得しないかといえば、商務印書館が李伯元を『繍像小説』の主編に招いた、と証言する資料がみつからないからである。汪家熔は、自ら勤務する商務印書館にその証拠を探しあてることができなかった。しかし、2001年、決定的な資料が発見された。1907年10月9日付『時報』『中外日報』には、「商務印書館/南亭亭長/繍像小説」という商務印書館自身の広告が掲載されているのだ。文中で南亭亭長李伯元を『繍像小説』の編集に招いた、と明言している。長年にわたる論争は、これでようやく終結することになる。
20010702
+07+15漢訳ドイル「荒磯」物語――山縣五十雄、周作人、劉延陵らの訳業
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第2号(通巻262号)2001.7.15
137-160頁。ドイルの作品でホームズ物語ではないものも漢訳されている。「アーカンジェルからの男」もそのひとつで2種類の翻訳がある。周作人の初期翻訳のひとつでもあり、彼と兄・魯迅の関係が良好であった時代のものだ。周作人が拠ったのは、日本にいた魯迅から送られた山縣五十雄の訳注本である。本稿は、原作をもとにして、該作品の最初の日本語訳と2種類の漢訳を比較検討する。
20010801
+10新しい商務印書館研究
樽本照雄 『東方』246号 2001.8.5
30-33頁。呉相『従印刷作坊到出版重鎮』(南寧・広西教育出版社1999.9)の書評。未発表資料を含む多量の資料を参照し、商務印書館の歴史を詳細に記述する書物であるにもかかわらず、金港堂との合弁時期については、ずさんな面が露呈している。その理由は、合弁問題について論じた日本語文献を参照していないからだ。日本の金港堂との合弁事業であるにもかかわらず、日本語文献を無視しているという弱点を指摘する。
20010901
+07+15漢訳ドイル「サノックス卿夫人事件」3種――李常覚、包天笑+張毅漢、周痩鵑らの訳業
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第3号(通巻263号)2001.9.15
73-91頁。ドイルの「サノックス卿夫人事件」は、中国では大いに人気を博した。1914年から18年のあいだに3種類もの漢訳が異なる翻訳者によって公表されているくらいだ。この3種類の漢訳を、英文原作と詳細に比較対照して翻訳の違い、特徴をさぐる。
20011001
+06+15贋作ホームズ失敗物語2――煮夢生『滑稽偵探』の場合
樽本照雄 『清末小説から』第63号 2001.10.1
1-8頁。中国独特の分野ではないかと思われるものに、ホームズが中国で活動し、そのことごとくが失敗するという物語がある。当然のことながら、コナン・ドイルの作品ではない。贋作だ。中国人作家が、好んで贋作ホームズ失敗物語を創作する。言及されることのない煮夢生『滑稽偵探』は、そういう贋作のなかのひとつだ。中国に異文化を背負ったホームズを投入することにより、中国の日常が異なったものとしてあらわれてくる。比較文化論風の作品になる可能性を秘めているということができる。
20011002
+10中国人は、ホームズを乾し殺した!?
樽本照雄 『清末小説から』第63号 2001.10.1
28-30頁。小林司、東山あかね編『シャーロック・ホームズ大事典』(東京堂出版2001)には、中国におけるシャーロック・ホームズ紹介について言及している。主として中野美代子の文章を引用して中国人がホームズを「乾し殺した」と断定する。その根拠は、そこで孫引かれた范烟橋の文章に、探偵小説を全面否定しているだ。だが、そこは引用すべき適当な箇所ではない。范烟橋は、ホームズを評価しているのだ。なぜ、そのような誤解が生じたのか。探偵小説が全面的に否定されていた時代に書かれた文章は、その背景を知らなければ、本当の意味がわからない場合があること。それは、日本とは決定的に異なる政治状況に原因することを指摘する。
20011101
+15漢訳ドイル医者物語――包天笑+張毅漢、周痩鵑らの訳業
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第4号(通巻264号)2001.11.15
25-125頁。コナン・ドイルはシャーロック・ホームズ物語で有名である。しかし、漢訳されたのは、ホームズ物語ばかりではない。医者を主題とした「赤ランプをめぐって」という作品集が、日本語よりも早くに漢訳されている。漢訳者は、包天笑と張毅漢のふたりだ。この「紅灯談屑」の漢訳を英文原作と逐一対照検討する。その結果、勘違いによる誤訳はあるものの、当時の英国事情をよく理解し、医学用語も例外を除いてはかなり忠実に漢訳していることが判明した。その翻訳態度は、ややまじめに過ぎ、英文原作が滑稽味をおびているものも、その滑稽味を無視している場合もある。当時の中国文芸界に、西洋翻訳作品の種類の多さを印象付けるものでもある。
20011201
+08劉鉄雲は冤罪である――逮捕の謎を解く
沢本香子 『清末小説』第24号 清末小説研究会2001.12.1
1-33頁。1908年に劉鉄雲が逮捕され新彊に流罪となったのは、事実である。しかし、その逮捕理由があいまいなまま現在にいたっている。研究者の誰一人として逮捕理由を特定できなかった。汪叔子は、諸資料を整理したのち、清朝政府高官の間で交換された電報を根拠に、1898年山西鉱山開発、1900年北京太倉米販売、1907年遼寧塩密売の罪状を掲げた。そのうち前者2件については、無罪を宣言する。残る塩密売のみが有罪であると断定し、劉鉄雲と日本人の親交、外務部電報という「国家秘密」の漏洩を理由に、売国奴だとも指摘する。日本側資料を利用し、劉鉄雲の塩販売活動は、日本政府に関係した公認されたものであり密売ではありえないこと、「国家秘密」漏洩の事実は存在しないことを指摘する。つまり、汪叔子は無実の劉鉄雲に売国奴という無実の罪をかぶせたことを証明した。
20011202
+08『官場現形記』の版本をめぐって
樽本照雄 『清末小説』第25号 2002.12.1
45-74頁。『官場現形記』の版本の発行情況と海賊版についての事件をあつかう。「官場現形記」は、著名な作品ではあっても、不明な部分が存在する。初出の『世界繁華報』連載時期が確定していない。中国に該紙の全揃いが保存されていないから、確定しようにもできないのだ。まず、初出の掲載時期から推測し、その単行本化の情況を新聞広告などで類推する。その結果、新聞連載と同時に単行本化が部分的に行なわれていたことが判明する。さらに、欧陽鉅源による増注本の作成と、その増注本に絵図を附加した海賊版の出現を明かにする。最大の問題は、海賊版といわれる粤東書局と崇本堂の配本である。増注絵図本の前半が崇本堂本で、後半が粤東書局本という配本である。この奇妙な形態は、後発の崇本堂が本文訂正版を新しく作成し、後半部分は粤東書局本を元にして石版印刷したものだという推測によってはじめて理由が説明できる。本論文は、今まで軽くあつかわれていた増注絵図本の位置付けを再度行ない、その一見奇妙な形態の謎を解明し、裁判との関係をより詳しく述べたところにその価値がある。
20011203
+07+13中国におけるコナン・ドイル(1)
――附:コナン・ドイル漢訳小説目録(初稿)
樽本照雄 『清末小説』第24号 2001.12.1
75-146頁。コナン・ドイルの作品は、どのように中国に移入されたのか。最初の漢訳「英包探勘盗密約案」((英)柯南道爾著)張坤徳訳『時務報』第6-9冊(光緒二十二年八月二十一日1896.9.27−九月二十一日10.27 「海軍条約文書事件 The Naval Treaty」)から順に紹介する。附録として「コナン・ドイル漢訳小説目録(初稿)」を掲げる。ドイルの全作品について、その漢訳のすべてを判明しているだけを資料として盛り込んだ。上海図書館における調査の成果のひとつでもある。
20011206
+09最近の商務印書館研究に見る日中合弁の事実
樽本照雄 『大阪経済大学教養部紀要』第19号 2001.12.31
101-134頁。商務印書館は、創業間もない約10年間、日本の金港堂と合弁会社であった。1997年、創立百周年をむかえて大々的な記念行事をくりひろげた。それを祝って発表された文章で、この日中合弁に触れるものは、ほとんどない。不思議なことといわなければならない。最近の研究論文において、日中合弁の事実に触れているかどうかを点検する。あわせて、二つの誤った通説が存在していることにも言及する。すなわち、葉宋曼瑛が言いはじめた、教科書疑獄事件原因説。金港堂は、教科書疑獄事件に蹉跌してあらたに中国大陸に投資先を求め、商務印書館と合弁したというもの。もうひとつは、汪家熔のいう商務印書館主権説だ。金港堂との合弁は、平等なものではなく商務印書館に主権があったというもの。いずれもが根拠のない謬論にもかかわらず、これを採用する研究論文があとをたたない。その原因のひとつが、日本語文献を利用していないことにある。つまり、日本との合弁事業を研究するのに、中国語文献しか利用していないために陥った誤りなのである。現代中国の研究者が、読むべき日本語の研究論文を読んでいない事実を指摘する。
20020101
+08李伯元は死後も『繍像小説』を編集したか
樽本照雄 『清末小説から』第64号 2002.1.1
1-12頁。『繍像小説』全72期は、李伯元の死去と同時に停刊した。これが、中国の学界における定説である。ひとつの例外もなく、長年にわたってくりかえしそう主張されてきた。これに対して、異議を唱えたのは、中国では張純であり、日本では樽本照雄である。昨日今日、新しく異議がとなえられたというわけではない。しかし、『繍像小説』発行遅延説は、中国の研究者が認めるものとはなっていない。研究者が認めなくとも、事実が存在する。『繍像小説』第13期より発行年月を記載しなくなる。当時の新聞『中外日報』『申報』に掲載された『繍像小説』の出版広告を丹念に拾っていけば、あきらかに発行が遅れていることがわかる。きわめつけは、李伯元が死去した光緒三十二年三月十四日以降も、『繍像小説』第53期よりあとの号が発行されている事実がある。同年十二月にようやく全72冊の刊行終了が宣言されているのだ。『繍像小説』の発行遅延は、それだけにとどまらない。李伯元の作品であるとされている「文明小史」「活地獄」「醒世縁弾詞」のおわり部分は、李伯元の死後の発表となるのだ。にわかに「偽作」説が登場することになる。従来の自説を、『中外日報』『申報』の出版広告によりあらためて検証した。
20020102
+15ポー最初の漢訳小説――周作人訳『玉虫縁』について
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第5号(通巻265号)2002.1.15
79-109頁。周作人が、南京の江南水師学堂で学生だったころ、ポーの『黄金虫』を漢訳したことがある。研究者は、この事実を指摘することはあるが、さらに一歩進めて、ポーの原作が何か、どのように漢訳しているかを追求してはいない。おそらく、原本の特定ができなかったのだろう。私は、本論文において、それらの謎を解明した。手掛かりは、周作人自身の回想文のなかにあった。つまり、兄の周樹人(魯迅)が留学先の東京から、英語の学習用に書籍を送ってきたことがり、そのなかのひとつが、ポーの『黄金虫』だったのだ。調べれば、山縣五十雄訳註『英文学研究』に収録されている。原本を入手し、原文、注釈、漢訳の全部を比較対照した。その結果、周作人は、山縣の訳註を参照しながら漢訳している事実を明らかにすることができた。
20020103
+10『漢訳ドイル作品論考』第1巻
樽本照雄 しょうそう文学研究所出版局2002.1.15 電字版
電字版だから印刷したものは存在しない。インターネットのホームページ http://page.greett.com/Shoso/index.htm からダウンロードする。
20020301
『暴夜物語』の底本――日訳最初のアラビアン・ナイト
樽本照雄 『大阪経大論集』第52巻第6号(通巻266号)2002.3.31
83-135頁。日本語で最初に翻訳されたアラビアン・ナイトは、永峯秀樹訳『(開巻驚奇)暴夜物語』(奎章閣1875)だ。拠った底本は、タウンゼンド版であるという定説がある。今まで異論が提出されたことはない。しかし、実際にタウンゼンド版と永峯訳本を突き合わせて検討すると、タウンゼンド版のみを使用したわけではないことがわかる。永峯は、大筋をタウンゼンド版に拠りながら、部分的にレイン版3冊本を挿入して翻訳している事実を指摘する。また、一部でいわれているように、永峯訳本は、適当に原文を抄訳したわけでもない。タウンゼンド版を忠実に翻訳している。抄訳したように見えたのは、タウンゼンド版そのものに省略があるからである。
20020401
#04『日本清末小説研究文献目録』
樽本照雄編 清末小説研究会2002.4.1
全112頁。1901-2001年間に日本で発表された清末小説研究文献約1,400件を集める。発表年月順。100年の研究傾向を受信から発信への変化だととらえる樽本「日本における清末小説研究」を掲げる。
20020402
#04日本における清末小説研究――受信から発信へ
樽本照雄 樽本照雄編『日本清末小説研究文献目録』清末小説研究会2002.4.1 清末小説研究資料叢書1
5-21頁。日本における清末小説研究をひとことで表現すれば、「100年の研究傾向は受信から発信への変化だ」。中国大陸での研究傾向の影響を受けて細々と研究が続けられていた時代が長いた。「文化大革命」により中国における研究が中断したその最中に、日本ではまるで無関係に清末小説研究が活発化するのだ。『清末小説研究』をはじめとして定期刊行物2種類が現在にいたるまで発行されつづけている。新しい資料も日本で発見されるという現象も起こっている。まさに、受信から発信へと研究姿勢が転換した証拠なのである。
20020404
(『日本清末小説研究文献目録』)あとがき
樽本照雄 樽本照雄編『日本清末小説研究文献目録』清末小説研究会2002.4.1
20020405
+10忘れられた増注本系『官場現形記』
樽本照雄 『清末小説から』第65号 清末小説研究会2002.4.1
1-3頁。『官場現形記』が初出の『世界繁華報』以外の媒体に転載されている事実が報告されている。北京『愛国報』に第24回終わりと第25回始めだ。これを発見した蘇鉄戈は、本文に評語がほどこされており、そういう版本は、これまで研究者によって指摘されていないと解説する。現在流通している版本とは、その点が大いに異なるというのだ。あたかも新発見の版本であるかのようにいう。ところが、評語を本文に割り込ませた版本は、普通に見ることができ、別に珍しいものではない。評語があるというのは、増注本系の版本である。どうやら、著者たちは、『官場現形記』に原本系と増注本系の2系列があることを知らないらしい。そういう論文が『明清小説研究』という専門雑誌に掲載されるということは、中国の研究者は、ほとんど誰も2系列の版本を区別していないということだ。日本で、はやくから2系列の存在に注目して文章が書かれていることを考えあわせると、ここでも情報の差が研究論文の質的差となってあらわれているということができる。
20020406
+11漢訳アラビアン・ナイト(1)
樽本照雄 『清末小説から』第65号 2002.4.1
3-10頁。『アラビアン・ナイト』は、漢訳されて『天方夜譚』あるいは『一千零一夜』という。漢訳の歴史をのべようというのが、この連載の目的だ。第1回では、中国における漢訳『アラビアン・ナイト』研究を紹介する。現在までの研究は、漢訳の書名をあげるだけの簡単なものばかりだ。漢訳の具体例までふみこんだ研究がないその原因は、英語訳の多様さにある。ガランのフランス語訳からの英語訳は、相当の数が出版されており、そのどれが漢訳の底本になったのか、中国の研究者は、誰も特定することができない。物語の冒頭部分を示し、いくつかの翻訳を比較対照してその違いをのべる。最初の漢訳として周桂笙の「一千零一夜」を紹介する。
20020407
呉趼人の手紙2通
沢本郁馬 『清末小説から』第65号 2002.4.1
20-23頁。呉趼人は、「アメリカの中国人移民排斥法に反対する運動(反美華工禁約運動)」に参加した。活動の情況を知ることのできる彼の手紙を『申報』1905年に見つけて紹介する。各資料集に収録されてはいるが、語句が異なっている部分もあり、原資料によることの重要性を強調する。
20020410
#05『新編増補清末民初小説目録』
[日]樽本照雄編、賀偉訳 済南・斉魯書社2002.4
本文1-981頁。索引1-89頁。『新編清末民初小説目録』を増補したもの。初版から数えれば、該目録の第3版となる。清末民初の小説雑誌掲載の作品を主に採取し、あわせて単行本になったものも、さらには最近の重版、復刻までを網羅した小説目録。創作ばかりでなく翻訳を収録しているところにも特徴がある。
20020411
#05(『新編増補清末民初小説目録』)新編増補版序
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 1-4頁
20020412
#05(『新編増補清末民初小説目録』)序
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 5頁
20020413
#05(『新編増補清末民初小説目録』)新編前言
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 6-11頁
20020414
#05(『新編増補清末民初小説目録』)本書的閲読方法
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 1頁
20020415
#05(『新編増補清末民初小説目録』)本書的使用方法
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 2-26頁
20020416
+12#05反映時代的小説目録――関於《新編清末民初小説目録》
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 1-2頁
20020417
#05(『新編増補清末民初小説目録』)旧版後記
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 3-4頁
20020418
#05(『新編増補清末民初小説目録』)新版後記
[日]樽本照雄著、賀偉訳 同上 5-7頁
20020501
+13漢訳ホームズ『緋色の習作』
樽本照雄 『大阪経大論集』第53巻第1号(通巻267号)2002.5.15
B5判。127-173頁。コナン・ドイル最初のホームズ物語『緋色の習作』は、複数が中国に紹介されている。清末には4種類の漢訳が刊行されたことは明らかだ。ただし、現在、見ることができるのは、そのうちの2種類にすぎない。複数の研究者に問い合わせ、ようやくそのなかの1種類の所蔵を知ったくらいだ。有名ではあるが、中国大陸の図書館に所蔵されるのは、今のところ、2種類だけである。陳彦訳『恩讐血』と林琴南訳『歇洛克奇案開場』を原文と照らし合わせながら、その漢訳の質を検討する。林琴南の翻訳は、彼自身が外国語を理解しないことでも有名だ。外国語ができる人物が口述翻訳するのを林琴南が筆記するという方法で140種に近い外国文学の翻訳をなしとげている。ただし、批判がないわけではない。作品の選択を口述翻訳者にまかせたため、全体の3分の2が「二三流の作品」だといい、誤訳、削除も多いというのが、その代表的な批判だ。しかし、ドイルの『緋色の習作』を2種類、比較検討したところ、実際に削除、誤訳が多いのは、林琴南の翻訳ではなかった。林琴南の漢訳は、原作に忠実な質の高い翻訳であることを原文と漢訳を引用しながら証明する。
20020601
『搨濠ッ場現形記』
南亭新著 樽本照雄編 清末小説研究会2002.6.1 清末小説研究資料叢書2
B5判、18+210頁。王學鈞「世界繁華報館《官塲現形記》増注本影印序」、樽本照雄「『搨濠ッ場現形記』について」。世界繁華報館出版の『搨濠ッ場現形記』を影印する。中国にその所蔵を聞かない、貴重本である。
20020602
+08『搨濠ッ場現形記』について
樽本照雄 樽本照雄編『搨濠ッ場現形記』 清末小説研究会2002.6.1 清末小説研究資料叢書2
7-18頁。『搨濠ッ場現形記』が、版本の系列にしめる位置を特定する。『官場現形記』には、ふたつの系列がある。ひとつは、世界繁華報館が出版する原本系。もうひとつは、欧陽鉅源が注をほどこした搨獄{系だ。過去において、搨獄{系は「海賊版」として無視されてきた。なぜなら、刊行年月もはっきりせず、はたして欧陽鉅源が注を書いたかどうかも確証がないからだ。しかし、樽本により発掘された世界繁華報館出版の『搨濠ッ場現形記』は、搨獄{が原本と同時に、しかも李伯元の承認のもとに作成されたことを証明している。同じ版元の世界繁華報館が、同時に海賊版を刊行する理由がない。のちの搨獄{系石印本のもとになったのが、すなわち『搨濠ッ場現形記』にほかならない。重要視されてしかるべき版本である。概説、辞書項目では無視される搨獄{ではあるが、しかし、復刻本に本文が採用されていることから、その重要性が認知されていることが判明する。
20020603
(『搨濠ッ場現形記』)あとがき
樽本照雄 樽本照雄編『搨濠ッ場現形記』 清末小説研究会2002.6.1 清末小説研究資料叢書2
20020701
+09商務印書館最初の英語教科書――『華英初階』について
樽本照雄 『清末小説から』第66号 2002.7.1
1-13頁。創業したばかりの商務印書館は、営業的に苦しい情況が続いた。創業者のひとり夏瑞芳が考えついたのは、自らが学んだことのある英語教科書に漢語の注釈をつけて発売することだった。この有名な英語教科書について、内容を紹介検討する論文は、発表されたことがない。入門の教科書としては、内容は比較的高度である。文法説明をほとこすよりも、学習者に発音練習を繰りかえすことを教授方針とする。ひとつの特徴は、キリスト教的内容を含んだテキスト文を配置していることだ。ただし、分離可能なかたちに編集していることも多量の販売を可能にした。
20020702
+11漢訳アラビアン・ナイト(2)
樽本照雄 『清末小説から』第66号 2002.7.1
21-28頁。周桂笙『新庵諧訳初編』に収録された「一千零一夜」は、はやい時期の漢訳アラビアン・ナイトである。この原書がタウンゼンド版であることを証明する。
20020703
+08『新小説』の発行年月と印刷地2
樽本照雄 『大阪経大論集』第53巻第2号(通巻268号)2002.7.15
371-379頁。『新小説』は、日本・横浜で創刊された中国最初の近代的小説専門雑誌だ。漢語で書かれており、主要な読者は中国大陸の中国人である。すなわち、日本で印刷して中国に輸送されていた。通説では、第2年より発行を上海の広智書局に移し、1906年1月に第24号を発行して終刊したことになっている。上海に発行所を移したと同時に印刷所も上海に切り換えたかのようにも書いてある。だが、その誌面を見れば、日本で一貫して印刷していたことがわかる。さらに、上海の新聞『申報』あるいは『時報』に『新小説』が「到着した」と広告される。普通、上海で出版した刊行物は、「出版した」と書かれる。これが日本で印刷されていたという根拠となる。おなじく新聞の広告により、その発行が遅れていたことを述べる。通説の1906年1月ではなく、光緒三十二(1906)年九月だと推測されるのだ。
20021001
+10新編増補清末民初小説目録序
樽本照雄 『清末小説から』第67号 2002.10.1
1-4頁。中国の斉魯書社より『新編増補清末民初小説目録』を出版した。該書のために書いた「序」の日本語原文。本稿は、賀偉によって漢訳されている。本目録の作成経過を紹介する。1988年に『清末民初小説目録』を刊行し、1997年に増補版である『新編清末民初小説目録』を出した。そうして本書の出現となる。いわば『清末民初小説目録』第3版だ。大幅に収録件数を増補した。中国で王継権、夏生元編著『中国近代小説目録』(南昌・百花洲文藝出版社1998.5)という類似の目録が出版された。だが、これには翻訳小説を収録しない。残念としかいいようがない。本目録の特色は、創作と翻訳の両方面にわたり、雑誌掲載の初出から最近の復刻、重版までを網羅した、唯一の小説目録であるというところにある。
20021002
+11漢訳アラビアン・ナイト(3)
樽本照雄 『清末小説から』第67号 2002.10.1
5-12頁。『大陸報』掲載の「一千一夜」もタウンゼンド版が原本であることを証明する。さらに、『繍像小説』に連載された「天方夜譚」の訳者・奚若について考証する。それまでの研究では、張奚若が本名であるとか、奚若は筆名であるとか言われてきた。だが、張奚若という人物はたしかに存在するが、その出身地が異なるため奚若ではありえない。奚若が本名であって、英語ができるところから商務印書館の英漢辞書の編集にたずさわり、のちには商務印書館の理事になっていることを明らかにする。
20021003
+10よみがえる『出版史料』
沢本郁馬 『清末小説から』第67号 2002.10.1
21-24頁。上海には、過去において出版に関する雑誌『出版史料』があった。主として近代出版を研究対象とする。商務印書館資料が生のままに掲載されるところには、大いに注目したものだ。資料を重視してその存在がきわだっていたということができる。ところが、30冊を出したところで停刊し、『編輯学刊』と名前をかえた。編集方針が変更になったらしく、資料性に富む文章が掲載されることが少なくなる。2001年、北京で『出版史料』がよみがえった。資料を重視するらしく上海の同名雑誌を継承するらしく、今後が期待できる。
20021101
+09初期商務印書館における教科書の系譜――『最新国文教科書』第1冊まで
樽本照雄 『大阪経大論集』第53巻第4号(通巻270号) 大阪経大学会2002.11.15『最新国文教科書』は、商務印書館が編集発行して教育界からの歓迎をうけた教科書として有名だ。それまでにない用意周到な編集方針によって編集されたというのが、好評の理由だとされる。編集を担当した当事者の回想も、誇らしげに新趣向を紹介する。だが、その画期的な教科書には、日本人の協力があったことについて、当事者は、一言も触れていない。その事実を隠したかったのである。商務印書館において、教科書編集の系譜を求めて、最初の英語教科書『華英初階』からはじまり、日本の国語教科書の漢訳本『和文漢訳読本』から杜亜泉『絵図文学初階』へつながる。一方で、『和文漢訳読本』から『最新国文教科書』への流れを見いだし、その関連は、いずれも日本人であることを明らかにした。すなわち、坪内逍遥著の国語教科書に漢訳をつけたものが『和文漢訳読本』であっった。その元本に依拠していた長尾雨山、小谷重たちが、商務印書館と金港堂の合弁によって上海の商務印書館にやってくる。日本人が編集に参加していたのだから、編集方針は、当然のように『和文漢訳読本』と同一になる。こうしてできたのが『最新国文教科書』なのだ。最初、商務印書館は、雑誌広告にも日本人の編集参加の事実を大々的に宣伝した。ところが、1906年の学部審定に際して、教科書の表紙から日本人2名の名前を削除した。外国人の参画した教科書は、審査に合格しないという予想したらしい。こうして、教科書の表紙から、また、当事者の回想録から日本人が抹殺されてしまうのである。
20021102
+12【国際学会報告】《新小説》的出版日期和印刷地点
樽本照雄 第2届中国古代小説国際研討会 上海師範大学 2002.11.14-17
(中国語)『新小説』の停刊年月と印刷地については阿英のとなえた定説がある。すなわち日本横浜で創刊され、第2巻より上海に編集と印刷を移す、光緒三十一年十二月に停刊したというもの。しかし、『新小説』の版組みに変化が見られないところから印刷地は一貫して横浜である。当時の新聞広告を丹念に調査することにより、『新小説』が「到着した」という意味の「到」という単語が使われていることが判明した。しかも、発行が遅延していると新小説社自身が緊急広告を出している事実もある。中国では、誤った説が定説となっていることを指摘する。
20021201
+14商務印書館版「説部叢書」の成立
神田一三 『清末小説』第25号 2002.12.1
1-46頁。商務印書館の翻訳シリーズ「説部叢書」は、有名であるが、その成立について論じた論文は、多くない。日本ではわずかに中村忠行が文章を発表しているだけだ。中国では、その存在を紹介するだけの短文がようやく執筆されるだけという寂しさである。資料上の制約があるのかどうか、詳細は不明だ。本論文は、中村論文よりもより詳細に、原物の書影をかかげながらその成立過程を述べる。略論すれば、最初は、商務印書館に「説部叢書」刊行の構想はなかった。漢訳作品が増加するにしたがってそれをひとまとめにすることにした。第一集から第十集まで各十編で総一百編とする。作品を入れ替えた改組を実行し、さらに表紙を統一する。100編を初集と改称したのちに第4集22編を発行して終了した。その成立過程は、単純ではないのだ。
20021202
+13中国におけるコナン・ドイル(2)
樽本照雄 『清末小説』第25号 2002.12.1
47-117頁。コナン・ドイルの作品は、どのように中国に移入されたのか。『時務報』にひきつづき、中国におけるドイル作品の漢訳を紹介する。阿英がその目録で『泰西説部叢書之一』と表記している作品は、『議探案』とすべきだという指摘を行なう。同じく、阿英が『続訳華生包探案』とよぶ単行本は、『続包探案』とするのが正しいことを原物を示して主張する。
20021203
+08劉鉄雲は冤罪である・補
沢本香子 『清末小説』第25号 2002.12.1
118-128頁。劉鉄雲は塩の密輸に関係していたというのが、最近の中国歴史界の見解である。呉振清「劉鶚致禍原因考辨」(『南開学報』2001年第1期)によると、清国、韓国、日本の外交史料に劉鉄雲が日本人の鄭永昌と韓国運塩会社を設立したとある。そこに集められた史料を読むと、韓国運塩会社は、中国塩を韓国に輸入するため設立された正式な会社であることが理解できる。塩の輸出をするため、中国の関係機関に許可を求めて活動する様子が記録されているだけだ。そこには劉鉄雲が塩の密輸にかかわったいかなる証拠も、ない。研究者は、劉鉄雲が逮捕されたのには理由があるはずだという思い込みで史料を捜査しているため、不正とは関係のない史料を誤読したのだと理解できる。
20021204
+10大塚秀高氏の文章2篇――「老残遊記」と「官場現形記」に関連して
樽本照雄 『清末小説』第25号 2002.12.1167-173頁。大塚秀高氏が書いた「老残遊記」と「官場現形記」についての文章を紹介するのは、ムダなことだ。なぜなら、矛盾する記述でもって論を進めているし、資料を提出しないで可能性のみを強調しているからだ。可能性ならば、どのようなことでも言うことができよう。真摯に問題を提出しているとは、とうてい思えない。そればかりか、最終的には、樽本に対して個人攻撃をするにいたっている。それへの反撃文である。
20021206
+10周作人漢訳アリ・ババの原本を求めて
樽本照雄 『中国近現代文化研究』第5号 2002.12.25
1-9頁。周作人『侠女奴』の原作は、『アラビアン・ナイト』のなかの「アリ・ババと40人の盗賊」である。周作人は、当時を回想した文章のなかで、原本がニュウンズ(GEORGE NEWNES)社版であることをくりかえし記述している。多くの研究者も、彼の記述のままを受け入れる。しかし、原物で確認されたことはない。私は、ロンドンにおもむき英国図書館に所蔵される該社の『アラビアン・ナイト』を閲覧した。周作人の漢訳と英文原作を比較対照したところ、彼が拠った原文はニュウンズ社版ではないことを発見したのである。タウンゼンド版、レイン選集版などを見たが、これらでもない。かろうじてサグデン版が、漢訳に一番近いこともわかった。しかし、完全に一致するわけではない。周作人漢訳の原本さがしは、振り出しにもどったことをいう。
20030101
『樽本照雄著作目録1』
樽本照雄編著 清末小説研究会2003.1.1 清末小説研究資料叢書3
B5判。本文248頁。索引43頁あり。合計291頁。樽本照雄が、1971年から2001年までのあいだに発表した文章の目録。清末小説にかんする研究論文のほかに、書評、埋め草、翻訳、編集後記、漢訳された論文などの題名も収録した。本著作目録は、論文の題名だけをあつめたものではない。論文が書かれた背景、当時の模様、あるいは論文の反響などについて書きくわえている。編集後記を再録したのは、文章が発表された頃の雰囲気を伝えるためだ。中国文芸研究会への参加から、『野草』『中国文芸研究会会報』の創刊、発行維持に際して遭遇したいくつかの困難について述べた。さらには『清末小説(研究)』『清末小説から』の創刊発行にまつわる事情も詳しく説明している。とくに注意を喚起したいのは、本書には、『清末小説きまぐれ通信』を再録したことだ。ハガキで発行していた『清末小説研究会通信』があった。ハガキ通信の全50号をまとめたものが『清末小説きまぐれ通信』である。非売品として少部数しか印刷しなかった。このたび、ようやく再刊をのぞむ声にこたえることができた。
20030102
(『樽本照雄著作目録1』)あとがき
樽本照雄編著『樽本照雄著作目録1』 同上 247-248頁
20030104
+09『絵図文学初階』巻1について――初期商務印書館における教科書の系譜2
樽本照雄 『清末小説から』第68号 清末小説研究会2003.1.1
1-9頁。初期商務印書館が発行した教科書にその流れの系譜を見る。『英華初階』から『漢訳和文教科書』を経て杜亜泉編『絵図文学初階』に続く。ただし、『絵図文学初階』は、その主流からはずれてしまい、日中共同編集の『最新国語教科書』に取ってかわられる。その理由は、なにか。原物の絵図、本文を検討し、編集の不徹底、出来合いのカットを流用した絵図のずさんさに原因を見いだす。
20030105
+11漢訳アラビアン・ナイト(4)
樽本照雄 『清末小説から』第68号 清末小説研究会2003.1.1
27-30頁。奚若訳の『天方夜譚』は、初出の『繍像小説』には英文原作について言及がなかった。のちの商務印書館版「説部叢書」には、ラウトレッジ社のレイン版だという記載がある。だが、これで奚若訳の底本がわかったことにはならなかった。欧州翻訳本の違いをのべて、漢訳底本探求を継続する。
20030106
+12辛亥革命時期的商務印書館和金港堂之合資経営
樽本照雄 『大阪経大論集』第53巻第5号(通巻第271号) 大阪経大学会2003.1.15
141-153頁。中国語。20011205(20031205同文)を漢訳したもの。
20030301
『漢訳ドイル作品論考2』
樽本照雄 しょうそう文学研究所出版局2003.3.15 電字版
電字版だから印刷したものは存在しない。インターネットのホームページ http://page.greett.com/Shoso/index.htm からダウンロードする。「中国におけるコナン・ドイル(1)」初出にある「附:コナン・ドイル漢訳小説目録(初稿)」は省略している。
20030302
獲得再生的《出版史料》
[日]沢本郁馬 朱文南摘訳 『出版史料』2003年第1期(新総第5期) 2003.3.25
124頁。
20030401
+08李伯元の肺病宣言――『繍像小説』発行遅延に関連して
樽本照雄 『清末小説から』第69号 清末小説研究会2003.4.1
1-13頁。李伯元の死因は肺結核であることは定説になっている。主として友人の証言による。李伯元自身が、光緒三十二年二月十五日付『世界繁華報』に広告文を掲載し、みずからが肺病であること、招宴を断わる宣言をしている事実を発見した。新出資料である。李伯元が肺病であったことの確証となるばかりか、『繍像小説』の刊行が遅れていた事実と関連するから、さらに資料的価値がます。すなわち、李伯元の肺病は、彼の死因となっていると当時に『繍像小説』の恒常的刊行遅延の原因だということになるからだ。
20030402
+11漢訳アラビアン・ナイト(5)
樽本照雄 『清末小説から』第69号 清末小説研究会2003.4.1
21-25頁。奚若約『天方夜譚』がよった英文原作の探求をつづける。その「序」には、ラウトレッジ社だと明記されている。探索すると東北大学の漱石文庫に1冊が所蔵されていた。複写を取り寄せると、それはサグデン版である。レイン版、タウンゼンド版、サグデン版の3種類を漢訳と比較対照して底本の特定作業に入る。「序」にレイン版だと書いているにもかかわらず、実際に原文を見比べると、レイン版ではありえないことが判明する。どちらかといえば、サグデン版に近い。謎が深まる。
20030601
『官場現形記資料』
樽本照雄 清末小説研究会2003.6.1 清末小説研究資料叢書4
B5判。全92頁。初出紙『世界繁華報』から現存する「官場現形記」と関連広告を、また『游戯報』から関連出版広告を複写収録する。さらに、版本として原本系と搨獄{系の書影、絵図を掲げる。第1次資料を収録したところに本資料集の特色がある。これほどまとまっているのは、中国でも例を見ない。中国で発表された研究論文でも言及されていない版本も紹介している。貴重な出版である。★『官場現形記』の版本研究からはじまった。調べてみれば1981年からだから、本資料集を出すまでに、すでに22年間が経過したことになる。
20030602
(『官場現形記資料』)あとがき
樽本照雄 『官場現形記資料』清末小説研究会2003.6.1 清末小説研究資料叢書4
91-92頁。
20030701
+11漢訳アラビアン・ナイト(6)
樽本照雄 『清末小説から』第70号 清末小説研究会2003.7.1
1-10頁。奚若訳『天方夜譚』の英文原本をつづけて探索する。レイン版、タウンゼンド版、サグデン版を比較対照しながらアラビアン・ナイトの記述にそって検討すれば、タウンゼンド版に主としてよりつつ、レイン版を参照しているらしい。
20030702
+08『清末小説叢考』
樽本照雄 汲古書院2003.7 大阪経済大学研究叢書第45冊
A5判、本文281頁。清末小説に関する論文9篇を収録する。各論文の冒頭に+08をつける。劉鉄雲「老残遊記」と黄河については、従来の誤解を正す。すなわち、「老残遊記」のなかで述べられた老残の黄河治水方法が、劉鉄雲の方法そのものだと考えられてきた。しかし、彼の治水に関する著作と実際の行動を調べてみると、「老残遊記」には、その一部分しか書き込まれていないことが判明する。それでは不十分であることを記録と作品を比較対照して証明する。また、劉鉄雲逮捕の理由についても、中国の研究者が新資料を発掘して証明したつもりになっているが、日本側の資料を無視しているから成立しないことも証明する。そのほか『官場現形記』の版本について、『繍像小説』の主編が李伯元であることを決定づける資料が発見されたこと、李伯元の死後も『繍像小説』が刊行されていたこと、李伯元が『世界繁華報』に自らの肺病を宣言する記事を掲載していること、などなど新発見を盛りこんだ論文集である。
20030703
+08(『清末小説叢考』)あとがき
樽本照雄 汲古書院2003.7 大阪経済大学研究叢書第45冊
283-285頁
20031001
雑誌の黄帝紀年――旧暦新暦問題
樽本照雄 『清末小説から』第71号 清末小説研究会2003.10.1
1-12頁。清朝末期に発行された雑誌群は、刊行年を表示するのに基本的には光緒宣統などの元号を使用している。しかし、清朝に反対する革命党の人々は、それとは違う元号を使用して立場の違いを表明した。すなわち黄帝紀年である。これには黄帝紀元と中国開国紀元などがある。ただし、同じ年数にならない。その理由は、そもそも根拠が薄弱だからだ。くわえて旧暦と新暦が混合しており、清末小説目録を作成するばあいの障碍となる。陳大康『中国近代小説編年』を紹介しながら、新暦旧暦問題を論じる。
20031002
+11漢訳アラビアン・ナイト(7)
樽本照雄 『清末小説から』第71号 清末小説研究会2003.10.1
23-28頁。奚若訳『天方夜譚』の英文原本をつづけて探索する。「記漁父」「記竇本」を検討する。それまでタウンゼンド版が底本であったように見えたが、詳細に漢訳と原文を比較対照してみると、どうやら違うように思える。こうして底本問題の迷路に入りこむことになった。
20031201
+11周作人漢訳アリ・ババ「侠女奴」物語1――英文原作探索篇
樽本照雄 『清末小説』第26号 清末小説研究会2003.12.1
1-51頁。周作人が漢訳した「アリ・ババと40人の盗賊」は、その英文原作がロンドン・ニュウンズ社版であることは、周知である。周作人が、数度にわたり回想して証言している。しかし、実際にニュウンズ社版を見れば、周作人の証言が間違っていることがわかる。どうやら勘違いしたらしい。そこで、漢訳の底本を追求する作業が必要となった。試行錯誤の結果、フォースター版、スコット版、ダルケン版、ニモ社版、サグデン版、タウンゼンド版、ニュウンズ社版をしぼりだし、それらのなかから、底本をさぐるところまで到達した。ただし、決定的な証拠を捜し当てることができない。
20031202
+13中国におけるコナン・ドイル(3)
樽本照雄 『清末小説』第26号 清末小説研究会2003.12.1
78-106頁。コナン・ドイルの作品は、どのように中国に移入されたのか、のつづき。『四つのサイン』を漢訳した『案中案』を検討する。
20031203
+10「老残遊記」の底本から回想録まで3題
沢本香子 『清末小説』第26号 清末小説研究会2003.12.1
143-162頁。「老残遊記」の底本、『老残遊記』全集の企画、劉尅キ『我与《老残遊記・補篇》』についての3題を収録する。「老残遊記」という作品の複雑な発表情況をみきわめなければ、底本を特定することはできない。しかも、現存する資料のなかから選定するのはそれなりの知識が必要となる。複雑な経過があるからこそ、全集にまとめたいと編集者は思う。全編あるいは全書と称する2種類の書籍を紹介し評価する。全書のなかに含まれる劉尅キの回想録について、その貴重な側面と、「老残遊記」に関する記述には不十分が箇所があることを指摘する。
20031205
辛亥革命前後における商務印書館と金港堂の合弁
樽本照雄 孫文研究会編『辛亥革命の多元構造』汲古書院2003.12.25
45-69頁。
20040101
+11「童話」の漢訳アラビアン・ナイト
樽本照雄 『清末小説から』第72号 清末小説研究会2004.1.1
1-17頁。児童文学としての「アラビアン・ナイト」が中国に最初に紹介されたのは、商務印書館が刊行する「童話」シリーズに収録されたものになる。1914年から1918年にかけて、4作品が刊行された。そのうち見たものはアリ・ババ、アラジン、もの言う鳥だ。既訳を要約したらしい。ただし、アリ・ババでは、盗賊の首領を殺さない。話し合いによって財宝を譲り渡すように説得する。書き換えることによって児童用の読み物となるように配慮したらしい。しかし、物語そのものが盗賊の盗品を盗むアリ・ババであり、不思議なランプにより裕福になるアリババだ。妹いじめの物語だったりして、とても児童用に適した物語とは思えない。それを無理矢理に収録するところに、当時の意識のズレを見ることができる(あるいは、現在も勘違いがつづいているのかもしれない)。
20040102
『清末小説過眼録』
劉徳隆著 清末小説研究会2004.1.1 清末小説研究資料叢書5
B5判。全126頁。本書の編集と発行を担当した。劉徳隆が武禧の筆名で『清末小説から』に連載した清末小説に関する論考27篇を収録する。劉徳威の希望は、『清末小説』と『清末小説から』に掲載した論文をまとめたいというものだった。しかし、それでは分量が多すぎる。また、すでにほかの書物に収録している論文もある。そこで「清末小説過眼録」で連載していた27篇のみを集めた書物となった。1冊1冊を自らの手にとって書かれた文章だから、その記述は研究の基礎となる。日本で中国語の論文集を刊行することは、研究者に普及しない恐れがある。しかし、その危険をおかしても後世に残すという意義を選択した結果である。
20040201
『老残遊記資料』
樽本照雄 清末小説研究会2004.2.1 清末小説研究資料叢書6
B5判。全151頁。「老残遊記」の刊行情況を初出資料で説明する。『繍像小説』掲載、下書き手稿、天津日日新聞社版、二集、外編残稿など。
20040202
(『老残遊記資料』)あとがき
樽本照雄 清末小説研究会2004.2.1 清末小説研究資料叢書6
150-151頁
20040301
『中国近現代通俗文学史索引』
樽本照雄 清末小説研究会2004.3.1 清末小説研究資料叢書7
B5判。全98頁。范伯群主編『中国近現代通俗文学史』の索引。近現代の通俗文学を中心とした文学史は、画期的な専門書である。それまでの左翼文学を中心とした視点をより拡大したところに該書の特徴がある。当時の文学状況を全面的に記述しているということは、すなわち、中心と見られていた左翼文学は、当時の中国文学の一部を占めているにすぎないことを明確にしたのだ。人名と小説作品を主として採取するこの索引は、利用者にとっては便利な工具書である。
20040302
(『中国近現代通俗文学史索引』)あとがき
樽本照雄 清末小説研究会2004.3.1 清末小説研究資料叢書7
97-98頁
20040401
+15贋作漢訳ホームズ2――『黄金骨』の場合
樽本照雄 『清末小説から』第73号 清末小説研究会2004.4.1
1-10頁。コナン・ドイルの漢訳として知られている『黄金骨』は、実は贋作である。前例として『深浅印』があった。コナン・ドイルの作品ではないにもかかわらず、そう誤解したのは阿英の判断違いである。『黄金骨』の場合も、ドイルの名前は記録されていない。作品も、毒殺事件の薬物に黄金の粉末を使用するという荒唐無稽の内容である。ドイルのホームズものには、当然ながらそのような作品は、存在しない。同書には、「華爾金剛石」も収録されている。それの注記がないことも阿英の不十分さ露呈させる。
20040402
+11漢訳アラビアン・ナイト(8)
樽本照雄 『清末小説から』第73号 清末小説研究会2004.4.1
31-33頁。「頭顱語(罰せられた大臣の話)」の漢訳を検討する。英文原本と照らし合わせると、漢訳はサグデン版にもとづいているようだ。
20040501
+09『初期商務印書館研究(増補版)』
樽本照雄 清末小説研究会2004.5.1
A5判、548頁。20000901初版を増補したもの。その増補とは、主として教科書に関する部分だ。教科書出版のきっかけとなった『華英初階』、国文教科書の杜亜泉編『絵図文学初階』、合弁後、日本人と共同編集した『最新国文教科書』である。これらを補充したことにより、教科書出版により基礎を築いた商務印書館の存在がよりいっそう鮮明となった。さらに、アメリカ人スタッフォードが撮影した夏瑞芳一家の写真、宝山路に建築した巨大な印刷所の写真数葉を新しく収録する。また、鮑3兄弟の写真もつけくわえることができた。いずれも、珍しいものだということができる。『初期商務印書館研究』初版を博士論文として大阪外国語大学に提出し博士号(言語文化学)を取得した。
20040502
+09『初期商務印書館研究(増補版)』まえがき
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
3-5頁
20040503
+09最近の商務印書館研究に見る日中合弁の事実
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
426-470頁
20040504
+09初期商務印書館年表
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
471-477頁
20040505
+09文献一覧
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
478-517頁
20040506
+09『初期商務印書館研究(増補版)』初版あとがき
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
519-526頁
20040507
+09『初期商務印書館研究(増補版)』増補版あとがき
樽本照雄 『初期商務印書館研究(増補版)』清末小説研究会2004.5.1
527-531頁
20040701
+10『唐〓蔵書目録』について――清末小説の方面から
樽本照雄 『清末小説から』第74号 2004.7.1
1-7頁。中国現代文学館に収蔵された唐〓の蔵書目録である。「内部交流資料」という表示があるのは、出版準備稿という意味なのだろう。翻訳書のばあい、漢訳者名を記載しないものもあって、今後の工夫が必要な箇所である。しかし、清末から民初にかけての原物を所蔵している点が、最大の意味をもっている。多量の原物がここに存在しているということがわかっただけでも、今後の研究に大いに貢献すると思われる。
20040702
+10『図画日報』影印版のこと2
沢本郁馬 『清末小説から』第74号 2004.7.1
8-11頁。以前、『図画日報』の影印版を書評して、その発行年月日を明らかにしていない欠点を指摘しておいた(20000403)。このたび別に影印出版されたものを見ると、やはり、表紙を掲載していない。資料の復刻としては貴重なものでありながら、不完全な作業によって、学術資料として使用上の欠陥があるこという。
20040703
+11漢訳アラビアン・ナイト(9)
樽本照雄 『清末小説から』第74号 2004.7.1
24-28頁。「四色魚」の漢訳を検討する。タウンゼンド版とサグデン版を比較対照すると、やはり漢訳の底本はサグデン版のように思われる。
20041001
「李伯元と劉鉄雲の盗用事件」の謎を解く
樽本照雄 『清末小説から』第75号 2004.10.1
1-9頁。李伯元「文明小史」と劉鉄雲「老残遊記」の盗用事件は、有名である。魏紹昌が、盗用の事実を指摘して解決不能の疑問3点を提出した。なぜ李伯元は没書にした文章から盗用したのか。劉鉄雲はなぜ抗議しなかったのか。両者の盗用関係を誰も知らなかったのはなぜか。これらの疑問を解決した研究者は、今まで存在しない。だが、私はいう。魏紹昌の疑問は、前提が間違っているから成立しないのだ。「文明小史」と「老残遊記」が掲載された『繍像小説』は、李伯元が死去したのちも発行を継続していた。盗用した「文明小史」は、李伯元の死後に発行された『繍像小説』に掲載されている。だから、盗用問題は、李伯元と劉鉄雲のあいだには存在しない。盗用したのは欧陽鉅源である。劉鉄雲は、自分の没原稿が盗用されたとは知らなかった。もし知っていたとしたら息子の劉大紳に話していたはずだ。だが、劉大紳の証言は残っていない。盗用の事実を知らないのだから抗議もしていない。「文明小史」は、雑誌連載後、単行本が1度出版されただけだ。長い間読むことのできなかった作品である。「老残遊記」から盗用した部分があることなど、専門家でさえ知らなかった。魏紹昌の疑問が成立しない理由である。
20041002
+11漢訳アラビアン・ナイト(10)
樽本照雄 『清末小説から』第75号 2004.10.1
24-26頁。漢訳の底本を特定するための肝要な部分にさしかかる。3人の托鉢僧の物語だ。買い集める野菜のなかに「タイラゴン(タラゴンのこと)」が出てくる。ところが、これまで見てきたレイン版、タウンゼンド版、サグデン版などにはその単語が、出てこない。別の英訳本をさがす必要が発生する。
20041101
『清末小説研究ガイド2005』
樽本照雄 清末小説研究会2004.11.1 清末小説研究資料叢書8
B5判。全135頁。第1部序説で論文が成立する必要条件について述べる。第2部ガイドで参考文献を紹介する。ガイド作成履歴、作家名索引、文献名索引あり。
20041102
(『清末小説研究ガイド2005』)あとがき
樽本照雄 清末小説研究会2004.11.1 清末小説研究資料叢書8
136頁
20041201
+11周作人漢訳アリ・ババ「侠女奴」物語2完――漢訳検討篇
樽本照雄 『清末小説』第27号 清末小説研究会2004.12.1
34ー70頁。周作人漢訳「アリ・ババと40人の盗賊」を英文原作と比較対照しながら、その翻訳の質について検討する。これは、同時に底本探求のつづきでもある。具体的には、フォースター版、スコット版、ダルケン版、ニモ社版、サグデン版、タウンゼンド版、ニュウンズ社版を手元におき、それらの本文と漢訳をつきあわせ、底本を特定しようという試みである。こまかく検討したが、結局のところフォースター系ということが判明しただけで、特定するにはいたらなかった。ただし、周作人による本文改変について大きな発見をすることができた。改変箇所は、本人自身が認めていることもあり、比較的容易に判別することができる。そこで、周作人によってなされた改変は、作品自体にどのような意味をもっているかを指摘する。すなわち、女奴隷とアリ・ババの息子が結婚する原作を、結婚しないと改変した。そこには、兄魯迅が創造したスパルタの女性英雄セレナの影響が見える。セレナが自殺するのと同じく、「アリ・ババ物語」の女奴隷は幸福な結末をむかえてはならい。それこそが英雄だと考えた。そこで、行方不明と書き換えた。こうして、周作人は、「アラビアン・ナイト」の世界を破壊する結果となったのである。問題の根が深いのは、自分のしたことを彼は生涯理解しなかったところにある。
20041202
+13中国におけるコナン・ドイル(4)
樽本照雄 『清末小説』第27号 清末小説研究会2004.12.1
71-92頁。周桂笙訳の「六つのナポレオン」と「空き家の冒険」を検討する。『新民叢報』に掲載された「歇洛克復生偵探案」は、いままで作品名だと考えられてきた。だが、事実は、シリーズ名であって、結果として「六つのナポレオン(竊毀拿破侖遺像案)」しか掲載されなかった。また、周桂笙は、シャーロック・ホームズを実在の人物だと考えていた。さらに、阿英目録に記載されている「再生第一案」は、正式な名称ではなく「阿羅南空屋被刺案」とするのが正しい。以上の新知見をのべる。
20041204
+14商務印書館と金港堂の合弁解約書
沢本郁馬 『清末小説』第27号 清末小説研究会2004.12.1
93-133頁。商務印書館と金港堂が合弁を解消したときの契約書を発見した。今までその存在が明らかにされたことはない。内部文書だから外に出現することのほうが不思議だ。だが、出てくる理由があった。1919年の五四運動に関連して日本の雑誌『実業之日本』が中国特集号を刊行した。これに収録された中華道人執筆の論文が、日中合弁の企業として商務印書館を掲げた。事実は、1914年に日本人の所有株をすべて回収しているのだから、1919年当時は日中合弁の企業ではない。ライバル会社の中華書局が、この雑誌を漢訳し刊行する。それに先だって中華道人論文のみをビラにして各学校に配布した。その意味は、外国企業との合弁会社である商務印書館の教科書を採用しないようにという圧力なのだ。「日貨ボイコット」が叫ばれた風潮に便乗するものだといえる。商務印書館首脳は、数年前に日本株を回収しており、すでに中国人が経営する企業であることを証明する必要に迫られた。資料のひとつとして公表されたのが合弁解消の契約書なのである。新聞に掲載されているにもかかわらず、日中の研究者は誰ひとりとしてこの事実を指摘したことがない。合弁解消を説明し、日本人株を買収するための金額、利子、手数料、支払日などを詳細に記述している。関係者の署名捺印があって研究上の第1級資料である。
20050101
+11「天方夜譚」小考
樽本照雄 『清末小説から』第76号 清末小説研究会2005.1.1
1-17頁。英語の題名である“THE ARABIAN NIGHTS”を漢訳して、なぜ「天方夜譚」となるのか。林則徐「四洲志」から魏源「海国図志」をへて厳復までの文献に「アラビアン・ナイト」の言及をさぐりながら、「天方夜譚」が出現するまでを考察する。その過程で、ヒュー・マレー『地理学百科事典』を翻訳したはずの林則徐「四洲志」が、原文を恣意的に選択して「アラビアン・ナイト」を紹介していることをはじめて指摘する。
20050401
+15漢訳ハガード小考――『血泊鴛鴦』の原作
樽本照雄 『清末小説から』第77号 清末小説研究会2005.4.1
1-12頁。コナン・ドイルとならんで英国作家ハガードは、清末民初時期の読者に大歓迎された。だが、その事実を無視する研究者がいる。彼らの作品は「三四流」だというのがその理由である。現在にまで尾を引きずっている偏見だ。それに反対したのが畢樹棠だった。ただし、その畢樹棠にして漢訳の原作を提示して多くが誤っている。研究のむつかしさが、ここにある。翻訳研究は、原作を特定するところからはじまる。その一例として『血泊鴛鴦』をあげる。この原作は、これまで“Dawn”だと考えられてきた。それは誤りで“Pearl-Maiden”であることを指摘する。
20050402
+11漢訳アラビアン・ナイト(11)
樽本照雄 『清末小説から』第77号 清末小説研究会2005.4.1
26-31頁。タウンゼンド版にもサグデン版にも見えない「タラゴン」を問題にした。だからこれらには異版があるのかとも疑ってみる。ところが、両者に見えない表現が漢訳にある。では、漢訳の底本はそれらとは関係がないのか。不思議なことがあるものだ。
20050701
+15『迦因小伝』に関する魯迅の誤解――漢訳ハガード小考2上
樽本照雄 『清末小説から』第78号 清末小説研究会2005.7.1
1-9頁。ハガードの『ジョーン・ヘイスト』には2種類の漢訳がある。包天笑らの部分訳『迦因小伝』と林紓らの全訳『迦茵小伝』だ。1字違いの書名でまぎらわしい。魯迅は、包天笑らの『迦因小伝』が原著の上半分の部分訳だと説明している。1970年代から樽本照雄が、下半分の間違いだと指摘している。また、中国でも同趣旨の文章が発表されてもいる。しかし、郭延礼は、わざわざ魯迅の書いている上半分が正しいと主張する。本稿は、翻訳の当事者たちが下半分の漢訳だと証言しているにもかかわらず、郭延礼はなぜそれを否定するのかを問題にする。結局のところ、包天笑らの『迦因小伝』そのものを提示する以外に魯迅の間違いであることを証明することはできない。よってそうした。
20050702
+11漢訳アラビアン・ナイト(12)
樽本照雄 『清末小説から』第78号 清末小説研究会2005.7.1
30-33頁。3人の托鉢僧の物語。井上勤訳を参照する。
20050801
+10『清末小説研究論』
樽本照雄 清末小説研究会2005.8.1 清末小説研究資料叢書9
B5判、総417頁。1975年から2004年までに発表した「清末小説」の「研究」に関する文章を集める。文献案内、書評、研究者の思い出、学会参加報告など。
20051001
+15『迦因小伝』に関する魯迅の誤解――漢訳ハガード小考2下
樽本照雄 『清末小説から』第79号 清末小説研究会2005.10.1
1-9頁。20050701の後半部。
20051002
+11漢訳アラビアン・ナイト(13)
樽本照雄 『清末小説から』第79号 清末小説研究会2005.10.1
20-24頁。漢訳が拠った英文原本は、タウンゼンド版とサグデン版なのだろうか。
20051003
研究雑誌の最先端――『清末小説』など
樽本照雄 『としょかん』第72号 大阪経済大学図書館2005.10.1
3-5頁。年刊『清末小説』および季刊『清末小説から』を発行する理由と経緯を述べ、それらが研究雑誌の最先端であると紹介する。あわせて、日本における研究情況一般についても説明する。
20051201
+14商務印書館関係資料いくつか
沢本郁馬 『清末小説』第28号 清末小説研究会2005.12.1
1-20頁。最近発表された商務印書館関係の資料いくつかを紹介する。『日本人之支那問題』について、『中国出版史料・近代部分』の商務印書館関係、『涵芬楼新書分類目録』に関連して、商務印書館宝山路印刷所の配置図、『最新国文教科書』。
20051202
+16林紓を罵る快楽(1)
樽本照雄 『清末小説』第28号 清末小説研究会2005.12.1
21-38頁。林紓は翻訳小説で大いに活躍したにもかかわらず、五四時期から保守派の代表者として批判されるようになった。その経緯を新発見の資料を使いながら追跡する。胡適ら白話文学派の攻撃目標は、最初、誰とも特定されているわけではなかった。なにしろ、保守派の人物は反応を示さないのだ。胡適が見いだしたのは、ようやく林紓の短い文章だった。古文を擁護している林紓なのだが、あまりにも弱々しい。胡適は、不満足であるとはっきり書いている。それを巨大な敵に仕立て上げるために、策略を使う。それが、ニセ批判文の作成である。
20051203
+13中国におけるコナン・ドイル(5)
樽本照雄 『清末小説』第28号 清末小説研究会2005.12.1
43-90頁。「バスカヴィル家の犬」を検討する。
20060101
『漢訳東西洋文学作品編目』とその編者
樽本照雄 『清末小説から』第80号 清末小説研究会2006.1.1
1-7頁。『漢訳東西洋文学作品編目』の編者について疑問が提出されている。曾虚白か徐調孚か。疑問が生じる原因は、張静廬が編集した出版史料に『漢訳東西洋文学作品編目』を収録したことにさかのぼる。それには、編者として蒲梢の名前しかあげていない。その蒲梢は徐調孚の筆名である。だから、該目録は徐調孚の編集ということになる。だが、橋川時雄は、該目録は曾虚白の編集だと記述しているのだ。蒲梢は、曾虚白かそれとも徐調孚か、という疑問が生じる。該書の複写を入手して見れば、「虚白原編、蒲梢修訂」という表記になっている。曾虚白が編集した目録に徐調孚が増補したというのが事実である。つまり、張静廬が曾虚白の名前を削除した事実が明らかになった。
20060102
+14商務印書館の火災(1)
沢本香子 『清末小説から』第80号 清末小説研究会2006.1.1
12-19頁。商務印書館が失火して、なぜ福建路に巨大な印刷所を建設することができたのか。大きな謎である。これについて説明した文章を読んだことがない。商務印書館の自社出版の記録と当事者たちの証言を、再度、洗い出すことにする。
20060103
+11漢訳アラビアン・ナイト(14)
樽本照雄 『清末小説から』第80号 清末小説研究会2006.1.1
20-25頁。英文原本の探索を継続する。
20060401
+14美華書館名称考(1)
樽本照雄 『清末小説から』第81号 清末小説研究会2006.4.1
1-6頁。American Presbyterian Mission Press が中国に創立した印刷所がある。マカオから寧波をへて上海に落ち着いた。美華書館の名称で知られる。マカオから寧波へどのような漢語名称で呼ばれたのかを述べる。中国での記述が混乱していること、日本での印刷史研究にも目配りする。まずは、中国における研究から記述する。
20060402
+14商務印書館の火災(2)
沢本香子 『清末小説から』第81号 清末小説研究会2006.4.1
9-15頁。印刷機器に火災保険をかけていても、保険金でまかなえるのは印刷機器の代金であるはずだ。新しい印刷工場を建築できる資金になったという説明は、どうしても納得しがたい。いくつかの証言を検討する。
20060403
+11漢訳アラビアン・ナイト(15)
樽本照雄 『清末小説から』第81号 清末小説研究会2006.4.1
15-21頁。漢訳の底本は、訳文との比較対照により、フォースター版である可能性が高くなった。
20060404
潘建国「近代小説的研究現状与学術空間」を読む
樽本照雄 『清末小説から』第81号 清末小説研究会2006.4.1
21-24頁。『文学遺産』2006年第1期(2006.1.15)に掲載された潘建国の文章を批判する。近代小説研究について現状把握と提案を行なう。すばらしい提案のかずかずであるが、本人はそれを実行する気があるのか。行動で示さなければ意味がない。
20060405
『清末小説研究論』を語る
樽本照雄 『としょかん』第73号 大阪経済大学図書館2006.4.1
3-5頁。自著『清末小説研究論』を自分で解説する。内容を紹介しながら、中国の研究情況と日本のそれを総括することが主旨となる。要約すれば、過去30年間における中国の研究情況は「壊滅状態から再生へ」であり、日本の研究情況は「受信から発信へ」となる。
20060601
+11『漢訳アラビアン・ナイト論集』
樽本照雄 清末小説研究会2006.6.1
A5判、総282頁。漢訳されたアラビアン・ナイトについて論じる。漢訳の歴史、底本とした英文原書、周作人が漢訳で書き換えたこと、童話への転換、漢訳名「天方夜譚」の由来など。英文原書にまでさかのぼって追求したのは、世界ではじめてだ。珍しい専門研究書であるといっても過言ではない。
20060602
+11漢訳アラビアン・ナイト(17)完
樽本照雄 『漢訳アラビアン・ナイト論集』清末小説研究会2006.6.1
『漢訳アラビアン・ナイト論集』に収録したため『清末小説から』には未掲載となった。
20060603
+11漢訳アラビアン・ナイト目録
樽本照雄 『漢訳アラビアン・ナイト論集』清末小説研究会2006.6.1
20060604
+11(『漢訳アラビアン・ナイト論集』)あとがき
樽本照雄 『漢訳アラビアン・ナイト論集』清末小説研究会2006.6.1
20060605
+11(『漢訳アラビアン・ナイト論集』)索引
樽本照雄 『漢訳アラビアン・ナイト論集』清末小説研究会2006.6.1
278-282頁
20060701
+14美華書館名称考(2)
樽本照雄 『清末小説から』第82号 清末小説研究会2006.7.1
1-11頁。美華書館研究に新しい発見があったことを述べる。マカオでは華英校書房と称していたこと、華花聖経書房ではなく花華聖経書房が正しい名称であること、の2点だ。それまでの記述は、ほとんどが賀聖〓乃鼎}の引用でしかなかったということだ。私が新しく見つけた英文原著からマカオでの開業を1844年6月17日だと特定する。
20060702
+14商務印書館の火災――いわゆる「焼け太り」の不可解(3完)
沢本香子 『清末小説から』第82号 清末小説研究会2006.7.1
11-15頁。商務印書館の火災について新資料を提出する。商務自身が『中外日報』に掲載した火災広告である。これには火災保険会社として3社の名称を掲げる。もうひとつの新資料は火災に関連して夏瑞芳が逮捕されたという新聞記事だ。いずれの記事を読んでも、多額の保険金が出た証拠はない。
20060703
+15アディスンの漢訳小説
神田一三 『清末小説から』第82号 清末小説研究会2006.7.1
17-23頁。中国におけるアディスン受容の実例である。アディスンの漢訳「易子而教」を英文原作と比較対照する。あわせて掲載誌『小説海』についても解説する。
20060704
+11漢訳アラビアン・ナイト(16)
樽本照雄 『清末小説から』第82号 清末小説研究会2006.7.1
24-28頁。フォースター版を含めてこれまでの版本と漢訳本文を比較検討する。『清末小説から』第82号は発行が7月1日付だが、実際は、『漢訳アラビアン・ナイト論集』の発行6月1日よりも以前に発行されている。
20060706
大学院時代の釜屋修氏
樽本照雄 『釜やんシンフォニー――釜屋修先生退休記念文集』翠書房2006.7.23
44-50頁。釜屋修(駒沢大学教授)の退職記念文集に書く。大阪外国語大学大学院で学んだ当時の思い出話。
200608
中国におけるアラビアンナイト
樽本照雄 国立民族学博物館編『アラビアンナイト博物館』東方出版2004.9.8を韓国で出版。2006
(朝鮮語)2006年8月に受け取る。
20060801
+12『清末小説研究集稿』
樽本照雄著、陳薇監訳 済南・斉魯書社2006.8
(中国語)総240頁。論文24本を収録する。日本で発見した清末小説資料をもとにして書いた中国語論文を主にし、さらに、中国語に翻訳された論文で構成される。劉鉄雲と日本人の関係、『搨濠ッ場現形記』の発見による版本系統の整理、『老残遊記』二集の発見による作品執筆過程の謎解き、『老残遊記』と『文明小史』の盗用関係など。
20060802
+12(『清末小説研究集稿』)前言
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)1-2頁
20060803
+12(『清末小説研究集稿』)後記
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)237-239頁
20060804
+12《老残遊記》写作刊行的両個問題
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)『老残遊記』の執筆過程について疑問が提出されている。1905年劉鉄雲日記に見える二集執筆である。第11回を書いた翌日に第15回を執筆しているが、第12-14回はいつ書いたのか。1905年に原稿を執筆し、その新聞掲載が1907年というのは時間的に見て遅すぎる。この謎を解くかぎは、『老残遊記』二集の発見にあった。日本で発見した該書は、その発表が1907年であることを確認することになった。『老残遊記』が最初『繍像小説』に連載されていた時、掲載中止の理由が編集者による原稿第11回の不採用である。没書になった第11回を復元したのが劉鉄雲日記に見える第11回にちがいない。これを二集だと断定したのは阿英の勘違いであった。
20060805
+12《繍像小説》的編者到底還是李伯元
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)汪家熔と樽本照雄の間で長らく論争となっていた『繍像小説』の編者問題である。李伯元が編集者であった証拠を上海で発行されていた新聞の広告で見つけた。
20060806
+12阿英先生的写法――与竺慶麟先生商〓
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)『二十年目睹之怪現状』の版本について阿英が誤記をしている。「一九〇六年十一月」としなくてはならない箇所を「十二月」と表記するのだ。ところが、阿英は正しいと反論してきた中国人研究者がいる。新暦になおせば「一九〇六年十二月」だと主張する。この研究者は、新暦と旧暦を混用している事実を知らず、機械的に新暦に換算している。その誤りを指摘する。
20060807
+12《遊戯報》的周樹人是魯迅〓ma?
樽本照雄著、陳薇監訳『清末小説研究集稿』済南・斉魯書社2006.8
(中国語)『遊戯報』に周樹人の名前が掲載されている。この周樹人は、魯迅だと疑問も持たずに断定されている。だが、当時、少なくとも3人の周樹人が存在した。『遊戯報』の該当個所を見ると、名前があるだけだ。それ以外の手がかりはない。魯迅であるというには、証拠を提出する必要があることをいう。
20060902
+13『漢訳ホームズ論集』
樽本照雄 汲古書院2006.9 大阪経済大学研究叢書第52冊
A5判、総439頁。
20060903
+13(『漢訳ホームズ論集』)まえがき
樽本照雄 『漢訳ホームズ論集』汲古書院2006.9 大阪経済大学研究叢書第52冊
20060904
+13(『漢訳ホームズ論集』)あとがき
樽本照雄 『漢訳ホームズ論集』汲古書院2006.9 大阪経済大学研究叢書第52冊
20060906
+13漢訳コナン・ドイル小説目録
樽本照雄 『漢訳ホームズ論集』汲古書院2005.9 大阪経済大学研究叢書第52冊
20061001
+14『繍像小説』の坂下亀太郎「理科遊戯」
神田一三 『清末小説から』第83号 清末小説研究会2006.10.1
1-7頁。『繍像小説』に2期だけ掲載された「理科遊戯」の原作を紹介し、その漢訳の意図を推測する。
20061002
+14美華書館名称考(3完)
樽本照雄 『清末小説から』第83号 清末小説研究会2006.10.1
8-11頁。華英校書房、華花聖経書房、美華書館のそれぞれの名称について私の感じる疑問点を点検する。American Presbyterian Mission Press の中国名称がそれぞれのものであること、マカオ、寧波における名称は臨時的なものであることである。
20061003
『清末小説研究集稿』日本語前言と後記
樽本照雄 『清末小説から』第83号 清末小説研究会2006.10.1
14-16頁。『清末小説研究集稿』のために書いた「後記」の日本語原文。出版時には中国語に翻訳された。研究の履歴を簡単にたどる。
20061004
『漢訳アラビアン・ナイト論集』――清末翻訳小説研究が進まない理由
樽本照雄 『としょかん』第74号 大阪経済大学図書館2006.10.1
3-4頁。『漢訳アラビアン・ナイト論集』を自分で解説する。『漢訳ホームズ論集』と同趣旨。
20061006
長尾雨山と上海文芸界
樽本照雄 『書論』第35号 書論研究会2006.10.1
192-199頁。長尾雨山は上海に約11年滞在し商務印書館に勤務していた。編訳所に所属していたから当時の作家たちとも面識があったはずだ。ところが、それを示す資料がない。雨山本人は、書き残していないのか。ただひとつだけそれらしい文章がある。「現代支那の作家生活」という。『日支時論』に掲載されたということはわかっている。長らく捜して得ることができなかった。渡辺浩司氏のご教示を得て、その原文を読むことができた。ところが、私が予想したものとは違っていたのだ。上海で当時流行作家であった李伯元は出てこない。いずれも伝統的な文人が対象になっている。雨山は、小説家など眼中にない思考法を堅持していたことがわかる。
20061201
英訳「老残遊記」
樽本照雄 『清末小説』第29号 清末小説研究会2006.12.1
1-34頁。英訳された「老残遊記」をすべて検討する。訳者が「老残遊記」についてどれくらい理解しているかを主としてさぐる。解説、版本選定にその理解が重要な意味をもってくるからだ。検討の結果は、資料的な制限があって過去の研究には誤りが少なくないことが判明する。英訳本を重版するばあい、編集者が適切に注をつけるなどの工夫をする必要があると指摘する。
20061202
+14商務印書館の日本人投資者
樽本照雄 『清末小説』第29号 清末小説研究会2006.12.1
107-134頁。商務印書館に投資していた日本人の名前は、すでに公表されている。だが、各人がどのような人なのかは簡単な紹介があるだけだ。本稿は、それをより詳しく調査したもの。
20061203
+15ゴールドスミス最初の漢訳小説
沢本香子 『清末小説』第29号 清末小説研究会2006.12.1
56-71頁。ゴールドスミスの漢訳2種類について主として述べる。ひとつは「ウェイクフィールドの牧師」、もうひとつは「世界市民」である。
20061204
+16林紓を罵る快楽(2)
樽本照雄 『清末小説』第29号 清末小説研究会2006.12.1
146-173頁。銭玄同が偽名王敬軒で発表した書簡とそれへの劉半農返信を検討する。仕組まれた論争だから劉半農が勝利するのは当然だ。林紓批判の開始である。しかし、その批判の内容は無知にもとづく誤解で成立している箇所がある。林紓にとってみれば冤罪なのだ。劉半農らを援助して登場した羅家倫は、彼らに輪をかけて林紓批判を拡大していく。こちらは外国人の著作から引用するが、これがほとんど捏造に近いものであることを証明する。
20061205
+14『商務印書館研究論集』
樽本照雄 清末小説研究会2006.12.15
A5判、総320頁。商務印書館に関係する論文を集める。
20061206
+14商務印書館の創業記念誌――日中合弁企業のばあい
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。134-143頁。商務印書館が刊行した創業記念誌に、日本の金港堂との合弁をどのように記述しているかを探る。創業10年、30年の記念誌は、珍しい部類に属する。前者では、合弁の事実を記さない。後者では、合弁の経緯を明らかにするが、述べていない事柄がいくつもある。さらに、これに基づいて書かれた荘兪論文(創業35年記念誌)には、主権が商務印書館にあった合弁だと事実とは異なる記述をするにいたっている。その心理的理由を推測して述べる。
20061207
+14初期商務印書館の財政状態
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。144-168頁。新しく発表された理事会報告書にもとづいて財政状態を点検する。ただし、資料集に収録された文書には、もともと記入されているはずの詳細な数字が省略された。これでは概要しか知ることができない。この重大な事実を指摘する。
20061208
+14『繍像小説』出版遅延問題簡論日本語原稿
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。181-182頁。中国語原稿の元原稿。
20061209
+14宋家姉妹の父親は商務印書館を創設したか1――チャーリー宋と美華書館
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。271-292頁。宋家姉妹で有名なその父チャーリー宋が、商務印書館を創設したという俗説がある。それにまつわって美華書館に関係があるように誤解する文献も出ている。事実はどうなっているのか。キリスト教系印刷所の複雑な漢語名称を考察する。
20061210
+14美華書館の最期
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。293-305頁。美華書館は商務印書館が買収したという説がある。その真偽を検討する。
20061211
+14『初期商務印書館研究』中文版序日本語原稿
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
未発表。306-308頁。『初期商務印書館研究』を漢訳したいと商務印書館の関係者から申し込みがあった。そのために書き下ろしたもの。
20061212
+14(『商務印書館研究論集』)あとがき
樽本照雄 『商務印書館研究論集』清末小説研究会2006.12.15
309-311頁。
20070101
+16魯迅「出乎意表之外」の意表外
樽本照雄 『清末小説から』第84号 清末小説研究会2007.1.1
1-7頁。魯迅は「出乎意表之外」を引用して林紓の誤用を批判した、ということになっている。しかし、文脈におくとわざわざ林紓を批判する意味がない。実は、銭玄同に「“出人意表之外”的事」という文章があることを踏まえているのである。茅盾を批判して銭玄同が書いた。魯迅全集の注釈にそれが明記されない理由は、茅盾批判があるからである。
20070102
出版社の図書目録――周振鶴編『晩清営業書目』のことなど
神田一三 『清末小説から』第84号 清末小説研究会2007.1.1
7-17頁。販売促進のための出版目録が、研究資料になることについて例をあげて説明する。また、周振鶴編『晩清営業書目』に収録された商務印書館の目録は、周がいう発行年とは違うことを指摘する。
20070201
#13『阿英『晩清小説史』ほか索引』
樽本照雄 清末小説研究会2007.2.1 清末小説研究資料叢書10
B5判。84頁。阿英『晩清小説史』(1991年版)、欧陽健『晩清小説史』(1997年版)、韓南『中国近代小説的興起』(2004年版)、樽本照雄『清末小説研究集稿』(2006年版)の索引。
20070202
#13「阿英『晩清小説史』ほか索引」について
樽本照雄 『阿英『晩清小説史』ほか索引』清末小説研究会2007.2.1 清末小説研究資料叢書10
20070203
#13(『阿英『晩清小説史』ほか索引』)あとがき
樽本照雄 『阿英『晩清小説史』ほか索引』清末小説研究会2007.2.1 清末小説研究資料叢書10
20070401
+16林訳シェイクスピア冤罪事件(要旨)
樽本照雄 『清末小説から』第85号 清末小説研究会2007.4.1
1-2頁。林訳シェイクスピア歴史劇には、小説化された英文原作が存在していたことを速報する。
20070402
+16林訳小説評価の最近――ある不安な新展開
樽本照雄 『清末小説から』第85号 清末小説研究会2007.4.1
2-6頁。郭延礼の提唱する「訳本を中心とする」説に反論する。原作と翻訳を切り離した彼の主張は、翻訳研究ではないからだ。
20070403
樽本論文補遺3題
沢本香子 『清末小説から』第85号 清末小説研究会2007.4.1
7-9頁。3題とは以下のとおり。1.「『阿英『晩清小説史』ほか索引」について」で言及していない阿英『晩清小説史』台湾版を掲げる。2.林紓「論古文之不宜廃」の初出天津『大公報』掲載を掲げる。3.「アラビアン・ナイトの翻訳者奚若」について資料を補足する。
20070404
『漢訳ホームズ論集』――清末翻訳小説研究が進まない理由2
樽本照雄 『清末小説から』第85号 清末小説研究会2007.4.1
10-12頁。『漢訳ホームズ論集』を自分で解説する。副題に「2」をつけるのは『漢訳アラビアン・ナイト論集』と同趣旨だからだ。
20070405
中国の研究者と討論をする――『清末小説研究集稿』に関連して
樽本照雄 『としょかん』第75号 大阪経済大学図書館2007.4.1
3-5頁。『清末小説研究集稿』を自分で解説する。とくに論争性のある論文についてその状況、背景などについて説明を加える。
20070501
+15『清末翻訳小説論集』
樽本照雄 清末小説研究会2007.5.1
A5判、総414頁。清末翻訳小説に関係する論文を集める。
20070502
+15(『清末翻訳小説論集』)あとがき
樽本照雄 『清末翻訳小説論集』清末小説研究会2007.5.1
397−400頁。
20070701
+16林訳イプセン冤罪事件
樽本照雄 『清末小説から』第86号 清末小説研究会2007.7.1
1-14頁。林訳イプセン、すなわち「梅〓」は「幽霊」のことだ。鄭振鐸は、原作の戯曲を小説化したとして批判する。だが、それは誤りである。ラム姉弟の『シェイクスピア物語』を『吟辺燕語』と漢訳したと同じように、またクイラー=クーチのシェイクスピア歴史劇を漢訳したのと同様に、デルの英訳小説化本を底本にしていた。だから、林訳が小説体になるのは当然なのである。
20071001
+16魯迅による林紓冤罪事件――「引車売漿者流」をめぐって
樽本照雄 『清末小説から』第87号 清末小説研究会2007.10.1
1-19頁。林紓が蔡元培の父親を当てこすったという有名な「引車売漿者流」がある。魯迅がそう注釈をつけて山上正義に手紙を書いたのだ。その手紙が公表されて以来、魯迅の見解がそのまま林紓の意図だと認定されている。だが、林紓はまったくそのような意図を持っていなかった。別人が書いたことを林紓の責任にしてしまったのだ。ゆえに「魯迅による林紓冤罪事件」だという。
20071002
【学会発表】林琴南は戯曲を小説に翻訳したか――シェイクスピア、イプセンを例として
樽本照雄 日本中国学会第59回大会 2007.10.6名古屋大学にて
林訳シェイクスピア、林訳イプセンについて80年以上にわたる冤罪事件が発生していると報告する。すなわち、林紓は、原作戯曲を小説にかえて翻訳したと批判されているが、その事実は存在しない。シェイクスピア原作を小説化したクイラー=クーチ本があり、イプセン原作を同じく小説化したデル本があって、林紓は翻訳にあたりそれらを底本にしたのである。従来の批判は間違いであった。
20071201
+16林訳シェイクスピア冤罪事件――林紓を罵る快楽 番外編
樽本照雄 『清末小説』第30号 清末小説研究会2007.12.1
1-59頁。林訳シェイクスピア歴史劇には、小説化された英文原作が存在していたことを証明する。過去の論文すべてが間違っていたことを列挙した。その数の多さは、長期間にわたって林紓に濡れ衣をきせ続けてきたことを意味する。林訳の底本を探索する努力をせず、ただ先行論文の誤りを引用して林紓を罵倒することが続いたということでもある。大きな冤罪事件として今後も記憶されるだろう。
20071202
周作人漢訳アリ・ババ「侠女奴」の英文原本
樽本照雄 『清末小説』第30号 清末小説研究会2007.12.1
70-87頁。周作人漢訳アリ・ババ「侠女奴」の英文原本がラウトレッジ社本の1種類であることをつきとめた。疑問として残してあった底本との異動部分を検証する。
20071203
林琴南冤獄――林訳莎士比亜和易卜生
樽本照雄 台湾国立政治大学中国文学系『政大中文学報』第8期 2007.12
(中国語)1-12頁。従来、林紓は戯曲を勝手に小説化したと批判されていた。しかし、林訳シェイクスピア、イプセンには、英文小説化本があった。林紓は、それを底本にしたから小説体であるのも当然だ。林紓批判は、誤りだった。
20080101
最初の漢訳「ドン・キホーテ」
樽本照雄 『清末小説から』第88号 清末小説研究会2008.1.1
1-6頁。最初の漢訳「ドン・キホーテ」は林紓の『魔侠伝』だというのが定説だ。事実は、それより以前に被褐(本名は馬浮)による部分訳が雑誌に掲載されている。
20080102
+17蔡元培を中傷した北京大学元教員
樽本照雄 『清末小説から』第88号 清末小説研究会2008.1.1
23-26頁。北京大学校長である蔡元培を中傷して、その父親が豆乳売りであると書いた人物がいる。筆名思孟を使った。しかし、それが北京大学元教員の徐であると指摘したのは、胡適だ。同僚だからよく知っているらしい。ところが、この徐が誰なのか、不明だ。私は、徐崇欽と徐佩銑を提出する。ただし、そのうちの誰かまではわからない。
20080301
中国翻訳家 冤罪一百年
樽本照雄 大阪経済大学『人間科学研究』第2号 2008.3.25
158-159頁
20080302
+16『林紓冤罪事件簿』
樽本照雄 清末小説研究会2008.3.31
A5判、総418頁。林紓と林訳小説について従来の定説が誤りであることを述べる。事実無根の罪で批判されているから冤罪事件だ。しかも、複数の例を集めるの事件簿という。
20080303
+16(『林紓冤罪事件簿』)まえがき
樽本照雄 『林紓冤罪事件簿』清末小説研究会2008.3.31
5-8頁。
20080304
+16林紓を罵る快楽(3)完
樽本照雄 『林紓冤罪事件簿』清末小説研究会2008.3.31
13-190頁の後半部分を構成する。林訳シェイクスピア、イプセンについて林紓は冤罪であったと判明した。だが、この事実は、林紓冤罪事件の一部でしかない。五四直前に発生した林紓をめぐる文学論争は、文学革命派が意図的につくりあげたものである。武力による北京大学抑圧とか、国会議員に働きかけて教育部長の弾劾案を提出させるとか、いろいろな風説がながれている。だがそれらは風説にすぎない。実現しなかったからだ。また、林紓は北大校長蔡元培へ手紙を書いたが、それが蔡を罵倒すると広く信じられている。北京大学をめぐる風説と同じく、それも虚偽である。たしかにモデルの特定できる短編小説「荊生」「妖夢」を発表したが、小説という虚構にすぎない。文学研究家が虚構と現実を混同して林紓を批判している。この異常な状況は、林紓冤罪事件に通じるものがある。すなわち、文学革命派にとっては、巨大で強力な反対者林紓を必要としたからだ。実像を数倍にふくらませた林紓を作り上げた理由である。従来の林紓評価を逆転する論点を提出する。『林紓冤罪事件簿』に収録したため『清末小説』には未掲載となった。
20080305
+16林訳スペンサー冤罪事件
樽本照雄 『林紓冤罪事件簿』清末小説研究会2008.3.31
282-294頁。スペンサー原作の韻文「妖精の女王」がマクルホーズによって小説化されている。林紓はマクルホーズ本を底本としていると明記しいる。にもかかわらず、近代翻訳小説研究者が、林紓が勝手に小説化したと記述するのだ。あきらかに冤罪である。
20080306
+16林訳小説冤罪事件の原点――鄭振鐸「林琴南先生」について
樽本照雄 『林紓冤罪事件簿』清末小説研究会2008.3.31
336-354頁。林紓の死後に書かれた林紓を評価する論文。鄭振鐸は、生前は文学革命の敵であった林紓について、彼の死後ようやく公平に評価することができるようになったと書く。そのことばをそのまま信じる後代の研究者もいる。だが、この論文こそが林紓冤罪事件のはじまりになるのだ。
20080307
+16(『林紓冤罪事件簿』)あとがき
樽本照雄 『林紓冤罪事件簿』清末小説研究会2008.3.31
397-403頁
20080401
『繍像小説』研究の現在
樽本照雄 『清末小説から』第89号 清末小説研究会2008.4.1
1-8頁。『繍像小説』にはみっつの問題がある。編者は誰か、また李伯元と劉鉄雲の盗用問題で、刊行遅延問題である。私は、問題点3件について独自の解答を提出している。だが、中国ではそれらについて長らく放置したまま追跡調査を行なっていない。ようやく文迎霞「関於《繍像小説》的刊行、停刊和編者」(『華東師範大学学報(哲学社会科学版)』第38巻第3期2006.5.15)が公表された。編者問題については、李伯元であることを新聞の広告を示して確認している。新聞を資料として利用するという私の方法を援用すれば、同じ結論に到着するのは当然だ。おなじく刊行遅延についても新聞広告を根拠にして私の解答に近い、ただしより緻密な推測を提示する。それは、よい。残念なことに、刊行遅延から必然的に生じる盗用問題については、言及をしていない。文迎霞の今後の論考を期待する理由である。
20080402
「林訳小説叢書」の作品数
沢本香子 『清末小説から』第89号 清末小説研究会2008.4.1
17-22頁。商務印書館が刊行した「林訳小説叢書」の種類と冊数について複数の数字がかかげられている。原物を確認できなければそうなる。あらためて、正確な数字を提示する。
20080601
『清末小説研究ガイド2008』
樽本照雄 清末小説研究会2008.6.1 清末小説研究資料叢書11
B5判、総203頁。第1部「蟻の穴から――私の清末小説研究」で論文が成立する必要条件について述べる。第2部ガイドで参考文献を紹介する。作家索引、文献索引、編著者索引あり。
20080602
(『清末小説研究ガイド2008』)第1部蟻の穴から――私の清末小説研究
樽本照雄 『清末小説研究ガイド2008』清末小説研究会2008.6.1 清末小説研究資料叢書11
7-48頁。私の清末小説研究を振り返り、研究論文が成立する条件について述べる。論文には「新しい発見」がなくてはならない。それを実行したのが、私の清末小説研究だった。取り組んだ課題を例にあげ、それが定説をくつがえす結果になった経過を紹介する。同時に、中国の研究界がどのような状況にあるのかも考えることになった。
20080603
(『清末小説研究ガイド2008』)第2部ガイド
樽本照雄 『清末小説研究ガイド2008』清末小説研究会2008.6.1 清末小説研究資料叢書11
49-201頁
20080604
(『清末小説研究ガイド2008』)あとがき
樽本照雄 『清末小説研究ガイド2008』清末小説研究会2008.6.1 清末小説研究資料叢書11
202-203頁
20080701
「官場現形記」裁判の真相――日本を装った海賊版
樽本照雄 『清末小説から』第90号 清末小説研究会2008.7.1
1-19頁。『官場現形記』の海賊版については、いくつかの候補をあげたことがある。当時の新聞を調査した。ただし、私の努力と資料が不足しており特定することができなかった。その後、中国の研究者が新聞を調査して裁判の時期を特定した。それに触発され、再度調査を行なう。新聞のマイクロフィルムを入手できるようになったのが研究状況の大きな変化である。その結果、いくつかの新しい新聞記事を見つけることができた。先行論文では言及のなかった資料だ。「官場現形記」裁判は、日本人になりすました中国人を裁くものであった。裁判がどのような経過をたどって落着したかを新聞の広告と記事によって明らかする。
20081001
『劉鶚集』はよろしい
樽本照雄 『清末小説から』第91号 清末小説研究会2008.10.1
1-16頁。これまで劉鉄雲に関する資料集は2度刊行されている。今回の『劉鶚集』は、劉鉄雲全集というべきものだ。集大成だからその意味は大きい。ただし、瑕瑾はある。以前はつけられていた有用な注釈を収録していない、『繍像小説』についての認識に誤りがあるなど。その点が少し残念だ。
20081201
+17阿英による林紓冤罪事件――『吟辺燕語』序をめぐって
樽本照雄 『清末小説』第31号 清末小説研究会2008.12.1
5-35頁。林紓は、ラム姉弟『シェイクスピア物語』を翻訳した。その『吟辺燕語』につけられた「序」が問題である。シェイクスピア戯曲と『シェイクスピア物語』を並置したのだ。両者の関係を説明していない。これを根拠に阿英がつぎのように説明している。原本が『シェイクスピア物語』だと林紓は誤解していた。つまり、林紓は、シェイクスピア戯曲の存在を知らなかった、という意味だ。しかし、林序を読めば、林紓がシェイクスピア戯曲とラム『シェイクスピア物語』を厳密に区別していることがわかる。林紓は、戯曲と小説の「区別がつかない」と批判される。これはまったくの誤りである。阿英によるこの間違った断定が、現在の研究者にまで影響を及ぼしていることを説明する。
20081202
+17『林紓冤罪事件簿』ができるまで――あるいは発想と研究方法について
樽本照雄 『清末小説』第31号 清末小説研究会2008.12.1
71-104頁。林紓は戯曲を勝手に小説化して翻訳したと批判されつづけている。だが、林訳シェイクスピア、林訳イプセンの底本は、それぞれの戯曲原本ではない。クイラー=クーチが小説化した、あるいはデルが物語化した書籍が林訳のもとになっている。すなわち、従来の林紓批判は根底から崩壊するのである。この、誰もが想像しなかった事実を私がどのように発見したか。その経緯を説明する。
20081203
+17周作人が魯迅を回想して林紓に言及する――日本語訳注釈について
沢本香子 『清末小説』第31号 清末小説研究会2008.12.1
105-115頁。松枝茂夫は、周作人の作品を日本語訳するにあたり不明個所を手紙で質問した。周作人が兄魯迅を回想するなかで、当時読んだ書籍を掲げる。林訳のほかに冷血、ユゴーが出てくる。松枝は、冷血を林紓の筆名だと誤解している。その間違いが現在にいたるまで訂正されていない。これは、なにを意味するのか。つまり、松枝は周作人を通して林紓を見ている。周作人が林紓を批判しているのに影響を受けないわけがない。批判されている人物――林紓に関する注釈には力が入らないという簡単な理由だ。
20090101
瀬戸宏報告を評する――「林紓のシェイクスピア観――林紓は冤罪か」について
樽本照雄 『清末小説から』第92号 清末小説研究会2009.1.1
1-10頁。瀬戸宏が報告した林紓批判が的外れであることを説明する。瀬戸は証拠もださずにあいかわらず林紓に濡れ衣を着せ続けているのである。
20090102
商務印書館創業者の姻戚関係図(補遺)
樽本照雄 『清末小説から』第92号 清末小説研究会2009.1.1
17頁。商務印書館創業者が姻戚関係でむすばれていたことは事実だ。いままで不明であった人物がキリスト教関係者として明らかにされたことを紹介する。
20090401
「老残遊記」執筆経過の謎1――書簡集『滬榕書札』に見る
樽本照雄 『清末小説から』第93号 清末小説研究会2009.4.1
1-11頁。『滬榕書札』は劉厚沢から兄尅キにあてた書簡集である。劉鉄雲の孫にあたるふたりは『老残遊記資料』の編集と執筆に従事した。その過程で彼らは「老残遊記」執筆経過の謎に遭遇する。問題は執筆経過のみに止まらない。規模のより大きな謎に発展するのである。
20090501
+17『林紓研究論集』
樽本照雄 清末小説研究会2009.5.1
A5判、総409頁。林紓に関する第2論文集。
20090502
+17林訳「ハムレット」――『吟辺燕語』から
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
40-52頁。林訳『吟辺燕語』に収録された「ハムレット」をラム版にもとづいて検討する。ほぼ原文に忠実ながら、いくつかの簡略化がほどこされている。
20090503
+17ラム版『シェイクスピア物語』最初の漢訳と林訳――「十二夜」を中心に
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
53-80頁。ラム「シェイクスピア物語」が最初に漢訳されたのは『〓外奇譚』である。1年遅れで刊行された林訳『吟辺燕語』と訳文を比較するために「十二夜」を取り上げる。前者には、加筆傾向があり、後者には簡略化の傾向がある。
20090504
+17林訳シェイクスピア――クイラー=クーチ版「ジュリアス・シーザー」
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
81-101頁。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」について、底本のクイラー=クーチ版と林訳を検討する。その結果は驚くべきものだった。前部の3分の1がクイラー=クーチ版そのままであり、残りの3分の2がシェイクスピア戯曲によっているのである。
20090505
+17林訳チョーサー
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
102-121頁。チョーサーの原作を小説化したクラーク版を林紓らは底本とした。漢訳の具体例を「死口能歌」に見る。話し手の「前説」は省略して漢訳している。
20090506
+17林訳ユゴー
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
122-147頁。ユゴー「九十三年」を林紓らは漢訳して『双雄義死録』と題した。原作を大幅に省略したと林訳を批判する理由のひとつとなっている。しかし、その底本はメギー要約版であると特定できる。ただし、英訳ベネディクト版を参照して補った箇所がある。大幅省略説は、林紓冤罪事件のひとつだ。
20090507
+17中国現代文学史における林紓の位置
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
148-270頁。五四時期に林紓がとった行動について批判が集中している。中国現代文学史の記述を過去にさかのぼって調査したが、例外がない。中国大陸、香港、台湾、日本そのほかの地域を問わずである。すなわち、林紓は文学革命に反対した代表者であるというのだ。しかし、その説明は文学革命派である胡適、鄭振鐸らが判定したものにすぎない。彼らには林紓を批判する必要があった。自分たちの正統性を強調するためには、強力な敵が存在しなければならなかったからだ。その犠牲者が林紓である。しかし、後の研究者が同じ批判を行なうことは、はたして正しいものなのか。林紓の行動のひとつひとつについて検討を行なえば、批判にあたいするものはどこにも存在しないからこそ、中国現代文学史の記述が異様なものに見えてくる。
20090508
+17林紓落魄伝説
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
271-293頁。林紓は、晩年において長時間の絵画制作に従事せざるをえなかった。こう説明する人が複数いる。いかにも落魄したかのようだ。しかし、林紓の経済状況を検討すれば、窮乏した事実はない。文学革命に反対した人物は、落魄していて当然だ、そうあってほしい、という願望が幻の落魄伝説をつくりあげたのである。
20090509
+17陳独秀の北京大学罷免――『林紓冤罪事件簿』補遺
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
294-343頁。陳独秀が北京大学を罷免された経過を探求する。この件については、定説がある。すなわち、陳は政治的な圧力により北京大学を自ら辞職したと説明されるのだ。しかし、事実は異なる。北京大学校長の蔡元培がひそかに進めていたのが陳独秀罷免であった。その理由は、陳独秀の私生活にある。結果として、中国近代史の研究者が、事実にもとづかない定説を信じ込んでいることがわかる。それが現在にまで訂正されることなく伝えられていることを明らかにする。林紓の文章に陳独秀を皮肉る箇所があることを指摘した。それらに関して、2007年、北京の該当場所(陳独秀故居、八大胡同、騾馬市大街など)に足を運んだ報告書を兼ねている。
20090510
+17(『林紓研究論集』)あとがき
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
393-398頁
20090511
+17(『林紓研究論集』)索引
樽本照雄 『林紓研究論集』清末小説研究会2009.5.1
399-409頁
20090512
清末小説目録の最新成果――劉永文編『晩清小説目録』について
樽本照雄 『東方』2009年5月号 2009.5.5
2-7頁。劉永文編『晩清小説目録』についての書評。収録作品の全項目について点検した。新聞小説部分は詳細で役に立つ。ただし、単行本小説部分は樽本の『新編増補清末民初小説目録』を不完全に複写しただけ。これには少し驚いた。劉永文は「前言」において樽本の目録が不十分で誤りが多いと批判しているからだ。それを写して知らん顔をするのは手抜きだ、と私は指摘した。
20090701
「老残遊記」執筆経過の謎2完――書簡集『滬榕書札』に見る
樽本照雄 『清末小説から』第94号 清末小説研究会2009.7.1
1-12頁。劉厚沢と尅キ兄弟は、『老残遊記』初集が刊行されたのは1904年であるという阿英の誤った断定を前提にして考えている。出発点が間違っているから「老残遊記」執筆過程がどうなっているのか正しく理解することは不可能であった。魏紹昌から提出された執筆過程についての質問に答えることができないのも当然だ。一方の魏紹昌自身も、阿英説を信じていたから解答に到達することができなかった。後年、樽本が正しい答えを提出した。魏は知らぬ顔をして阿英説に根拠がないと書いたのだった。より大きな問題とは、こうだ。「文明小史」が「老残遊記」から盗用していること。それに掲載誌である『繍像小説』の発行遅延問題がからむ。編集長だった李伯元が死去したあとも『繍像小説』は発行を継続していた。李伯元の死後に発表された「文明小史」は、李の作品ではない。彼の協力者であった欧陽鉅源が執筆したとしか考えられない。「文明小史」の著者問題に発展するのだ。
20091001
セルバンテス最初の漢訳小説――『谷間鶯』について
樽本照雄 『清末小説から』第95号 清末小説研究会2009.10.1
1-頁。セルバンテスの作品といえば「ドン・キホーテ」が著名である。しかし、セルバンテスの最初の漢訳はなにかといえば、日本語から重訳された『谷間鶯』だった。『模範小説集』のなかの1篇だ。「ドン・キホーテ」よりも前に、しかも日本語訳にもとづいたセルバンテス作品であることが珍しい。
20091101
清末民初の翻訳小説と日本
樽本照雄 『図説翻訳文学総合事典』第5巻日本における翻訳文学(研究編) 大空社、ナダ出版センター2009.11.25
261-270頁。清末民初の翻訳小説と日本のかかわりについて概観する。西洋の文物を中国が輸入するために日本語を利用した。同じく西洋小説も日本語経由で翻訳したといういきさつがある。それは一時期の特異な現象であった。
20091201
曾孟樸の初期翻訳(上)
樽本照雄 『清末小説』第32号 清末小説研究会2009.12.1
1-47頁。大デュマとユゴーの作品について曾孟樸が行なった翻訳を検討する。「上」は大デュマについて。曾孟樸は白話による漢訳を主張していた。林紓が文言で翻訳するのに反対していたのも有名な話だ。曾は林に会ったとき、直接そう進言している。大デュマ「王妃マルゴ」はたしかに白話を使って漢訳した。訳文を示して検討した。その結果は、曾孟樸の翻訳は、従来考えられていたほどには原文に忠実ではないという事実だ。
20091202
書家としての呉檮
沢本香子 『清末小説』第32号 清末小説研究会2009.12.1
85-115頁。清末の翻訳家で有名な呉梼の経歴は不明のままだ。日本語経由で外国小説を多く漢訳した。その事実ははっきりしている。日本に留学した、商務印書館に勤務したことがある、など書かれることがある。しかし、留学の確証もないし、商務印書館勤務の証拠もでてきはしない。いずれも推測なのだ。まったく別の方面から示唆があった。呉梼は書家であるというのだ。新聞の広告に呉梼の潤例(揮毫料金表)が示されている。李叔同の知人でもあったことが判明する。資料を提出し、書家としての呉梼を提出する。研究の新しい局面を示すことができた。
20100101
施蟄存による林紓冤罪事件
樽本照雄 『清末小説から』第96号 清末小説研究会2010.1.1
1-6頁。ユゴーを漢訳して囂俄としたのは林紓である。こう施蟄存は断定して、その間違いを批判している。だが、林紓がユゴーを囂俄と漢訳した事実は、ない。この点について施蟄存は林紓に濡れ衣を着せた。
20100102
『繍像小説』問題
樽本照雄 『清末小説から』第96号 清末小説研究会2010.1.1
17-18頁。汪家熔が『繍像小説』主編問題をまた蒸し返している。『中国出版通史』7清代巻(下)(北京・中国書籍出版社2008.12)において主編は李伯元ではないという自説を展開する。すでに問題を解決する資料が提出されているにもかかわらずだ。版元である商務印書館が新聞広告で李伯元を雑誌の主編に招いたと宣伝した。その動かない証拠を汪家熔は否定するのである。研究の基本をないがしろにしていると言わざるをえない。
20100401
ユゴーの漢訳名囂俄について(上)
樽本照雄 『清末小説から』第97号 清末小説研究会2010.4.1
1-8頁。ユゴーの日本語訳には2系統がある。英語系ヒューゴーとフランス語系ユゴーだ。日本では、一部に英語系ヒューゴーが使われたことがある。だが、ほとんどはフランス語原音を尊重してユゴーを使う。過去においてはユーゴーとも表記した。中国語訳でもこの2系統がある。英語系ヒューゴーは囂俄とし、フランス語系は雨果である。中国で特異なのは、長く英語系の囂俄が使用されたことだ。では、誰がそれを何にもとづいて漢訳したのか。日本語を経由したことはほぼ間違いない、と韓一宇はいう。だが、それらしい日本語訳を見ても決定的な証拠とはなりそうもない。囂俄を最初に掲載した梁啓超の『新小説』雑誌に注目する。「囂俄小伝」が人見一太郎『ユーゴー』にもとづいていたことを明らかにすることができた。しかし、人見の表記はあきらかにフランス語系であって囂俄とは一致しない。梁啓超自身は、徳富蘇峰の文章に依拠して姚哥と漢訳している。ユゴーの漢訳としては姚哥となる可能性の方が高かったと考える。だが、そうはならなかった。Hugoが英語読みされ南方音によって囂俄とされたのである。現在のところ言うことができるのはそこまでだ。上下の2回に分載した。
20100501
(『清末民初翻訳短篇ミステリ論集』)序
樽本照雄 渡辺浩司『清末民初翻訳短篇ミステリ論集』清末小説研究会2010.5.1
3-6頁
20100601
#15『商務印書館研究文献目録』
樽本照雄 清末小説研究会2010.6.1 清末小説研究資料叢書13
B5判、総166頁。商務印書館に関する文献の目録。論文「最近の商務印書館研究について――日中合弁の側面から」、「『繍像小説』問題はどう論じられているか」の2本を収録。
20100602
#15(『商務印書館研究文献目録』)最近の商務印書館研究について――日中合弁の側面から
樽本照雄 『商務印書館研究文献目録』清末小説研究会2010.6.1 清末小説研究資料叢書13
5-37頁。商務印書館は、日本金港堂と実質10年間の合弁会社を維持していた。研究者は、合弁にいたる経過と解消までの状況をどの程度把握して論文を書いているのか。20箇の鍵語を設定して「鍵語言及率」を算出する。最近の研究書8種(注において1種)を対象にしてそれぞれの評価を下す。「最近の商務印書館研究に見る日中合弁の事実」(2001)の続編。
20100603
#15(『商務印書館研究文献目録』)『繍像小説』問題はどう論じられているか
樽本照雄 『商務印書館研究文献目録』清末小説研究会2010.6.1 清末小説研究資料叢書13
38-55頁。『繍像小説』については編者、発行遅延、盗用の問題が存在する。研究者は、それらの問題をどのあたりまで把握しているのか。李伯元研究から、張仕英と王学鈞の著作を取り上げて検討する。『繍像小説』研究からは、王燕と郭浩帆の論文をとりあげる。さらには、文迎霞、汪家熔の論文も視野に入れて評価一覧表を作成した。
20100604
#15(『商務印書館研究文献目録』)あとがき
樽本照雄 『商務印書館研究文献目録』清末小説研究会2010.6.1 清末小説研究資料叢書13
165-166頁
20100701
ユゴーの漢訳名囂俄について(下)
樽本照雄 『清末小説から』第98号 清末小説研究会2010.7.1
1-12頁。「ユゴーの漢訳名囂俄について(上)」を参照のこと。
20101001
『繍像小説』問題2
樽本照雄 『清末小説から』第99号 清末小説研究会2010.10.1
1-6頁。『繍像小説』問題とは、編者、発行遅延、さらに「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題である。主編者が李伯元であったときに、「老残遊記」の没書事件が発生した。ところが、その没書になったはずの内容が「文明小史」に盗用されている。では、盗用したのは李伯元だったのか。これに『繍像小説』の発行遅延という事実がからむので問題が複雑になる。事実は、李伯元の死去後に問題の「文明小史」第59回が発表されているのだった。死者が原稿を書くことはできない。李伯元にかわる人物がいたはずだ。それは欧陽鉅源であるというのが従来からの私の主張である。盗用問題について、もういちどその経過を整理しなおした。
20101201
呉檮の漢訳チェーホフ
樽本照雄 『清末小説』第33号 清末小説研究会2010.12.1
31-51頁。呉檮はロシア小説を翻訳したことで有名だ。ただし、具体的な作品についてその漢訳が検討されたことはほとんどない。漢訳チェーホフについてその「黒衣教士」をもとづいた日本語訳と比較対照しながら検討する。その結果は、評価するべき点がふたつある。ひとつは、チェーホフの複雑な小説を選択したこと。もうひとつは、ちいさな誤訳はあるにしてもこなれた口語(白話)を使用して翻訳したところだ。高く評価できる。
20110101
小説目録はたのしい――『清末民初小説版本経眼録』紹介
樽本照雄 『清末小説から』第100号 清末小説研究会2011.1.1
1-頁。付建舟、朱秀梅のふたりが、清末民初小説の版本を説明する。表紙、奥付を写真版で掲示するのが貴重だ。目次には133種を掲げる。
20110102
書家としての呉檮・補遺
沢本香子 『清末小説から』第100号 清末小説研究会2011.1.1
19-21頁。前稿を発表後に知った資料による呉檮関係の補遺。書家として活躍していた事実を扇面の書に見る。音楽教師をしていたことがある、という同時代人の証言を紹介する。
20110301
#16『清末民初小説目録』第4版
樽本照雄 清末小説研究会2011.3.31電字版
CD-ROM1枚。A5版換算で本文3,197頁、索引208頁、合計3,405頁。構成は以下のとおり。略号一覧。序(初版から共通、附:范泉、賀偉の漢訳)。第2版まえがき(附:賀偉の漢訳)。第3版まえがき(附:賀偉の漢訳)。本書の読み方。本書の使い方。典拠一覧。本文。索引。統合(本文と+索引)。樽本「清末民初小説目録の最新成果――劉永文編『晩清小説目録』について」。樽本「時代を反映する小説目録」(附:賀偉の漢訳)。第4版あとがき。第2版あとがき(附:賀偉の漢訳)。初版あとがき(附:賀偉の漢訳)
20110301
樽本照雄教授略歴・業績目録
樽本照雄 『大阪経大論集』第61巻第6号(通巻第321号)2011.3.15
337-361頁。桜井三枝子教授、田中邦夫教授、樽本照雄教授退職記念号
20110401
呉檮の漢訳ゴーリキー(上)
樽本照雄 『清末小説から』第101号 清末小説研究会2011.4.1
1-6頁。呉檮が漢訳したゴーリキー作品を検討する。呉がもとづいた原文は日本語だった。ゴーリキー作、長谷川二葉亭訳「猶太人の浮世」(『太陽』第11巻第2、4号1905.2.1、3.1)である。ロシア人のユダヤ差別をあつかった比較的珍しい部類の作品になる。
20110402
夏瑞芳暗殺事件の犯人
樽本照雄 『清末小説から』第101号 清末小説研究会2011.4.1
21-23頁。商務印書館社長夏瑞芳を暗殺した犯人の名前が、複数ある。王慶餘、王慶瑞と1字違いだったり。また事件の犯人周棲雲が銃殺されたという新聞報道もある。暗殺犯はひとりではないのか。なぜ複数の人物が登場するのか。新聞報道を追跡して解明する。
20110501
小説目録に見る『繍像小説』の刊行年月日
樽本照雄 清末小説研究会ウェブサイト 2011.5.19 電字版
『繍像小説』の刊行年月日について中国の研究者が多く誤記する。ありもしない刊行年月日を記述するのはなぜなのか。それを言いはじめた阿英に呪縛されているらしい。
20110701
呉檮の漢訳ゴーリキー(下)
樽本照雄 『清末小説から』第102号 清末小説研究会2011.7.1
1-8頁。呉檮の漢訳チェーホフに比較するといくつかの削除があることがわかった。それは漢訳の不足ということになるが、全体からいって大筋をはずれることのない翻訳だ。
20110702
『清末民初小説目録』第4版問答(上)
樽本照雄 『清末小説から』第102号 清末小説研究会2011.7.1
17-26頁。『清末民初小説目録』第4版についての問答集。内容は以下のとおり。第4版CDは自動的に起動する/検索は自由自在/索引の問題/本文の変更点など/研究の流れ/劉永文目録など/劉目録の問題点
20110901
窮索問題之独行者――専訪樽本照雄教授
張書華著 鄭文恵、顔健富主編『革命・啓蒙・抒情――中国近現代文学与文化研究学思録』台湾・允晨文化実業股〓有限公司2011.9
211-225頁。中国語。書簡によるインタビュー。
20111001
商務版「説部叢書」研究の昔と今――不思議な版本(上)
樽本照雄 『清末小説から』第103号 清末小説研究会2011.10.1
1-11頁。商務印書館版「説部叢書」に収録された不思議な版本を紹介する。その前に、「説部叢書」の成り立ちを研究した日中の研究を見る。中村忠行論文が早くに、詳細に論じていることを指摘する。
20111002
『清末民初小説目録』第4版問答(下)
樽本照雄 『清末小説から』第103号 清末小説研究会2011.10.1
16-25頁。『清末民初小説目録』第4版についての問答集。内容は以下のとおり。劉目録の単行本小説/阿英説をめぐって/電字版の問題/文字化けについて/複写、配布自由のこと
20111201
翻訳家奚若
樽本照雄 『清末小説』第34号 清末小説研究会2011.12.1
1-25頁。奚若は、アラビアン・ナイトなどの翻訳で著名だ。ところが、その経歴がはっきりしなかった。別人の筆名だと考えられていた理由だ。少なくとも3人の候補者がいる。張奚若、伍光建、周桂笙だ。しかし、いずれも正解ではない。以前にわかったことは、アメリカのオベリン大学で修士号を取得したこと、商務印書館の理事に就任したことなど。それほど、多くはなかった。今回、資料を追加して奚若の経歴をさらに追跡した。その結果は、アメリカのキリスト教が背景に存在したことが判明した。奚若は、蘇州の東呉大学を卒業している。東呉大学こそ、キリスト教の上海、蘇州への学校建設の一環だった。また、中国YMCAと謝洪賚らの関係が明らかになる。
20111202
曾孟樸の初期翻訳(下)
樽本照雄 『清末小説』第34号 清末小説研究会2011.12.1
60-93頁。「下」はユゴーの作品について曾孟樸が行なった翻訳を検討する。曾孟樸は、大デュマ「王妃マルゴ」は白話を使って漢訳した。ところが、ほとんど同時期に翻訳したユゴー「九十三年」は、文言を使用したのである。この矛盾した翻訳情況について訳文を示して検討する。「九十三年」であれば林紓も漢訳している。両者を比較対照した結果、曾孟樸の翻訳は、原文にまったく忠実というわけではないことが判明する。林訳と同等であるといっていい。
20111203
書家としての呉檮・補遺2
沢本香子 『清末小説』第34号 清末小説研究会2011.12.1
94-102頁。郭長海より拙稿「書家としての呉檮」に批判があった。原籍を示すと、西湖、銭塘、海陽の同姓同名同室名(天涯芳草館)の3人がいるという。しかし、銭塘天涯芳草館呉檮を示す史料はいまのところ発見されていない。郭長海は、実在する史料と仮定のものを混在させている。郭の立論自体が成立しないと反論したもの。
20111204
貴重な出版史料のひとつ――『繍像小説』主編を示す商務印書館の新聞広告
樽本照雄 『清末小説』第34号 清末小説研究会2011.12.1
117-119頁。『繍像小説』の主編は李伯元である。当時の新聞広告に発行元の商務印書館がそう書いている。この事実を汪家熔は、認めようとはしない。あいかわらず、主編が誰かは不明だ、と主張している。彼が編集する『中国出版史料・近代部分』補巻にも間違ったことを注釈に書いた。それが間違いであり、該書に収録すべき新聞広告であることを指摘する。商務印書館の広告影印を添付する。
20120101
商務版「説部叢書」研究の昔と今――不思議な版本(下)
樽本照雄 『清末小説から』第104号 清末小説研究会2012.1.1
1-9頁。集編番号が同一である版本は、存在しないはずだ。しかし、『吟辺燕語』と『金銀島』が同一。『金銀島』が間違っている。なぜかはわからない。また、『寒桃記』の集編番号を●で塗りつぶす版本がある。塗りつぶしていないものも実在する。こちらの理由も不明。不思議な版本があるものだ。以上の事実は、商務印書館編訳所の刊行物管理が厳格ではないことを示唆している。
20120102
李伯元和呉趼人的経済特科
樽本照雄 陳思和、王徳威主編『建構中国現代文学多元共生体系的新思考』上海・復旦大学出版社有限公司出版2012.1 慶祝范伯群教授80年誕曁学術生涯60周年
中国語、再録(『中国学報』第36輯 韓国中国学会1996.7.20)
20120301
憶厳薇青先生
[日]樽本照雄著、劉禎臣訳 厳民、莫非編著『泉魂:紀念厳薇青先生誕辰100周年』済南出版社2012.3
中国語。19971206「厳薇青氏のこと」の漢訳
20120401
マティーアと『釦子記』
樽本照雄 『清末小説から』第105号 清末小説研究会2012.4.1
1-13頁。漢訳『釦子記』の訳者は誰か。従来は狄丁氏だといわれてきた。阿英、周越然らの目録、あるいは樽目録にもそう掲載してある。しかし、事実はそうではない。宋莉華は、狄丁氏ではなく狄文氏であると新しく指摘した。ふたりを混同しているというのだ。『釦子記』を見ることができるのならば簡単だ。だが、実物を見ることができない。それを確認するためには何をどう調べたらいいのか。マティーア兄弟の再婚相手について調べることになった。その結果、ふたりを混同していたのは宋莉華自身であったという皮肉な結果になってしまった。
20120701
アメリカ人宣教師の暦
樽本照雄 『清末小説から』第106号 清末小説研究会2012.7.1
1-8頁日本と中国では旧暦から新暦に変換することが生じた。明治6年であり中華民国元年である。それ以前は、出版物には旧暦を表示したのだ。たとえ英語で書くとしても、旧暦を機械的に翻訳しただけ。では、旧暦の時代に日本、あるいは中国に滞在したアメリカ人宣教師たちが使った暦はどちらなのか。ヘプバーン書簡を見ると、旧暦であるような部分がある。だが、確かめてみればやはり新暦だ。中国にいるアメリカ人宣教師ラウリーも同様に新暦を使用していた。旧暦で生活する日本人、中国人とは異なり、宣教師たちは新暦の時間を過ごしていた。
20121001
商務印書館の名称と日中合弁問題1
樽本照雄 『清末小説から』第107号 清末小説研究会2012.10.1
1-8頁。商務印書館は、日本の金港堂と合弁会社となった。その名称は従来通り商務印書館である。ところが、「印」抜きの商務書館、上海をつけた上海商務印書館、また中国商務印書館というものまで存在する。中村忠行は、それらの背後に金港堂の影を見る。つまり、日中文化摩擦を経験した金港堂が嫌がらせのためにそれぞれを使用したというのである。はたして、そうか。中村説を資料にもどついて検討する。
20121201
ヘプバーン、マティーア兄弟と美華書館
樽本照雄 『清末小説』第35終刊号 2012.12.1
1-54頁。日本の活字鋳造歴史から関係のある人物としてギャンブル(ガンブル)が出てくる。彼は、上海のアメリカ長老派教会伝道印刷所、すなわち美華書館(本稿では北京路の所在を検証してもいる)の責任者であった。彼が在職中に和英辞書を美華書館で印刷したアメリカ人宣教師がいる。日本ではヘボンとして知られるヘプバーンだ。ヘプバーンの書簡によって当時の美華書館が混乱していたことがわかっている。おまけにその時の責任者は無能だと罵られるのだ。だが、それが事実かどうかを検証した例は見えない。マティーア兄の伝記から、彼らが美華書館の経営と技術に大いに貢献している事実を見つけた。ヘプバーンに罵られたのは、マティーア兄弟だった。ヘプバーンの手紙は、必ずしも本当のことを書いているのではない。
20121202
商務印書館『涵芬楼新書分類総目』について
沢本郁馬 『清末小説』第35終刊号 2012.12.1
100-125頁。阿英が『晩清小説史』で言及した目録に商務印書館の『涵芬楼新書分類総目』がある。長年さがしてようやく複写を入手した。該目録は商務印書館編訳所が設置していた図書室(館)の所蔵書を収録している。蔵書目録だから実際に刊行された書籍であることが確かだ。その小説類を中心にして『清末民初小説目録』と比較照合した。その作業は、汪家熔がもとづいた『涵芬楼地字号目録』の正体を明らかにすることにつながった。つまり、汪家熔が特別に呼んだいわゆる『涵芬楼地字号目録』は、『涵芬楼新書分類総目にほかならない。附録「正誤表」をつけた。
20130101
商務印書館の名称と日中合弁問題2
樽本照雄 『清末小説から』第108号 清末小説研究会2013.1.1
1-8頁。商務印書館は、日本の金港堂と合弁会社となった。その名称は従来通り商務印書館である。ところが、「印」抜きの商務書館、上海をつけた上海商務印書館、また中国商務印書館というものまで存在する。中村忠行は、それらの背後に金港堂の影を見る。つまり、日中文化摩擦を経験した金港堂が嫌がらせのためにそれぞれを使用したというのである。はたして、そうか。中村説を資料にもどついて検討した。その結果は、こうだ。日本の金港堂の思惑によって生じたものではなく、商務印書館自身のつごうで複数の名称を使用した。
20130401
いくたびかの阿英目録1
樽本照雄 『清末小説から』第109号 清末小説研究会2013.4.1
1-9頁。阿英「晩清小説目」が研究の出発点だった。なんども読み直している。あらためて気づく23のことを述べる。題目は以下のとおり。阿英目録の特色/先行目録など/阿英が隠した翻訳文学目録。
20130402
#17『清末民初小説目録 第5版』
樽本照雄編 清末小説研究会2013.4.15電字版(ウェブ公開 非売品)
樽目録第5版。清末小説研究会ウェブサイトで公開。A4判換算で、説明pdf1.117MB133頁、本文pdf37.042MB4,647頁。収録総計は32,556件。その内訳は、創作24,712件、翻訳7,809件、創作と翻訳の合集35件となる。空前の収録数である
20130403
#17(『清末民初小説目録 第5版』)あとがき
樽本照雄 清末小説研究会2013.4.15電字版(ウェブ公開 非売品)
20130501
辞典30項目
樽本照雄 尾崎雄二郎、竺沙雅章、戸川芳郎編『中国文化史大事典』大修館書店2013.5.10
鴛鴦蝴蝶派小説、海上花列伝、官場現形記、鏡花縁、〓海花、月月小説、繍像小説、小説月報、銭杏邨、二十年目睹之怪現状、林紓、老残遊記、王韜、九尾亀、苦社会、譴責小説、呉趼人、詩界革命、小説界革命、商務印書館、新小説、蘇曼殊、断鴻零雁記、張恨水、痛史、啼笑因縁、南社、巴黎茶花女遺事、李汝珍、李宝嘉
20130701
いくたびかの阿英目録2
樽本照雄 『清末小説から』第110号 清末小説研究会2013.7.1
1-7頁。「1」からのつづき。題目は以下のとおり。汪家熔のばあい/阿英は雑誌と翻訳を重視する/実現しなかった叢書の企画。
20131001
いくたびかの阿英目録3
樽本照雄 『清末小説から』第111号 清末小説研究会2013.10.1
1-4頁。「2」からのつづき。題目は以下のとおり。周越然目録/阿英が使用した記号。
20131002
『吟辺燕語』批判の謎
沢本香子 『清末小説から』第111号 清末小説研究会2013.10.1
15-25頁。文学革命派の王敬軒(銭玄同)と劉半農は、捏造した手紙に反論を書くというなれあい芝居を演じた。自陣である『新青年』誌上において林紓批判を始めたのである。敵として林紓を指名した最初のことだった。林紓の翻訳シェイクスピア『吟辺燕語』を批判の証拠に掲げた。原作の戯曲を勝手に小説化したと批判する。これに対して同時代の誰も、後代の研究者のひとりも反論を提出していない。奇妙なことだ。『吟辺燕語』の底本はラム姉弟の『シェイクスピア物語』であるからだ。文学革命派の陳独秀、王敬軒(銭玄同)、劉半農、胡適、魯迅周作人兄弟たちは、その事実を知らなかったのか。結論は、知っていて林紓に無実の罪を着せたのだった。冤罪という理由である。あわせて、この重要事件を、張俊才、王勇著『頑固非尽守旧也:晩年林紓的困惑与堅守』(太原・山西出版伝媒集団、山西人民出版社2012.1)が無視していることを述べる。従来からある五四新文化運動の評価を逆転した好著にして、欠陥があるのは残念なことだ。
20140101
いくたびかの阿英目録4
樽本照雄 『清末小説から』第112号 清末小説研究会2014.1.1
1-7頁。「3」からのつづき。題目は以下のとおり。「老残遊記」を例にして/商務印書館『老残遊記』1907年版。
20140102
早期漢訳ドーデ「最後の授業」1――胡適訳「最後一課」のばあい
神田一三 『清末小説から』第112号 清末小説研究会2014.1.1
19-29頁。ドーデ「最後の授業」を早くに漢訳した人に胡適がいる。フランス語原文から漢訳した(ように見せかけた)。外国語を知らない林紓が大量の漢訳作品を社会に送り出したことを批判する胡適は、外国語からの直訳、逐語訳を主張しているからだ。林訳小説批判を行なった胡適が漢訳したドーデ「最後一課」は、ならばフランス語原文から直訳、逐語訳したのか。これが問題の出発点だ。胡適の漢訳を点検する。フランス語原文、英語重訳本、胡適漢訳を比較対照する。その結果判明したことは以下の事柄だ。胡適が漢訳するさいに使用した底本はフランス語原文ではない。英語重訳本(レイノルズ英訳)である。大幅な削除がある。やっていることは、胡適が批判した林紓とあまりかわらない。それよりも、ドーデ「最後の授業」礼讃一辺倒がうさんくさい。日本ではすでにドーデ作品が、フランス愛国主義を宣伝して舞台となったアルザスに対する偏見に満ちていると化けの皮がはがされている。アルザス人フランツを母語フランス語を話すことができないと設定した。母語を話すことのできないのは、それは母語ではないからだ。アルザスではドイツ系アルザス方言を喋っている。つまり、ドーデ作品そのものが成立しない。だが、ドーデ流「母語が奪われる+祖国愛」が世界を巡っている。中国の研究論文は、郭延礼、韓一宇らを含めて、全員がドーデ流に束縛されたまま。愛国主義を称讃すればするほど、中国人がドーデ作品を誤読していることを宣伝しているのに気づかない。ウェブの世界では、その欺瞞性に気づいた中国人が存在する。その意見は、はたして中国の学界に受け容れられるのかどうか。今後がみものだ。題目は以下のとおり。はじめに/問題を着想する/胡適の林訳小説批判/胡適の林訳小説批判/曾孟樸へあてた胡適の手紙/漢訳ドーデ「最後の授業」/胡適訳「最後一課」の底本を特定するために/胡適訳「最後一課」/胡適漢訳の検証
20140301
#18『清末民初小説目録 第6版』
樽本照雄編 清末小説研究会2014.3.31電字版(ウェブ公開 非売品)
樽目録第6版。清末小説研究会ウェブサイトで公開。A4判換算で、説明pdf5.773MB138頁、本文pdf16.965MB4,833頁。収録総計は33,029件。その内訳は、創作24,945件、翻訳8,044件、創作と翻訳の合集40件となる
20140302
#18(『『清末民初小説目録 第6版』)あとがき
樽本照雄 清末小説研究会2014.3.31電字版(ウェブ公開 非売品)
20140401
いくたびかの阿英目録5
樽本照雄 『清末小説から』第113号 清末小説研究会2014.4.1
1-7頁。「4」からのつづき。題目は以下のとおり。黄俊東の「晩清戯曲小説目」紹介/阿英目録の誤記――刊と本/抽印本の存在/引用途中での錯誤――民国報本
20140402
周作人漢訳ヨーカイ・モール1――『匈奴奇士録』の英訳底本について
樽本照雄 『清末小説から』第113号 清末小説研究会2014.4.1
17-21頁。周作人は、ハンガリーの作家ヨーカイ・モール作品のひとつを『匈奴奇士録』の題名で漢訳し刊行した(商務印書館1908)。ハンガリー語原題は Egy az Isten という。周作人は、英訳に基づき転訳した。その底本について彼自身は、ロバート・ニスベット・ベインRobert Nisbet Bainの英訳本 Midst the Wild Carpathians だと断言している(「黄薔薇」)。それについて疑義を提出した研究者は、中国を含めて誰もいない。事実を追求すると、周作人の勘違いであることが判明した。漢訳の底本は、パーシー・フェイバー・ビックネルPERCY FAVOR BICKNELL英訳『マナセ:トランシルヴァニア物語』MANASSEH: A ROMANCE OF TRANSYLVANIA(1901)である。題目は以下のとおり。阿英の記述から/日本語訳『晩清小説史』/阿英「晩清小説目」/周作人訳ヨーカイ・モール/周作人『知堂回想録』
20140403
早期漢訳ドーデ「最後の授業」2――胡適訳「最後一課」のばあい
神田一三 『清末小説から』第113号 清末小説研究会2014.4.1
26-35頁。「1」からのつづき。題目は以下のとおり。胡適漢訳の検証(続完)
20140701
いくたびかの阿英目録6
樽本照雄 『清末小説から』第114号 清末小説研究会2014.7.1
1-6頁。「5」からのつづき。題目は以下のとおり。翻訳小説「空谷佳人」の怪/英国人博蘭克巴勒の正体
20140702
早期漢訳ドーデ「最後の授業」3――胡適訳「最後一課」のばあい
神田一三 『清末小説から』第114号 清末小説研究会2014.7.1
16-27頁。「2」からのつづき。題目は以下のとおり。ドーデ「最後の授業」の問題点/胡適が漢訳した意図/義和団事件賠償金と胡適のアメリカ官費留学/中国における以前の研究/中国における今の研究/韓一宇の論文1/郭延礼論文/韓一宇論文2
20140703
周作人漢訳ヨーカイ・モール2――『匈奴奇士録』の英訳底本について
樽本照雄 『清末小説から』第114号 清末小説研究会2014.7.1
28-32頁。「1」からのつづき。題目は以下のとおり。周作人「黄薔薇」――誤解のはじまり/『匈奴奇士録』の「小引」/今までの専門研究いくつか
20140704
王文君氏へ――『繍像小説』発行遅延問題について/附:『繍像小説』刊行一覧
樽本照雄 『清末小説から』第114号 清末小説研究会2014.7.1
37-42頁。王文君が『繍像小説』の刊行遅延説について調査した。その結果、樽本の示した『申報』広告の記事掲載月日に不正確な箇所がある、と批判するのだ。その事実を認める。ただし、いくつかの誤記は、刊行遅延説を否定するまでにはいたっていない。誤差の範囲内におさまる。王文君に反論して、目先の事実に精密であろうとして、調査を行なう本来の目的を見失った、という。なんのために調べるのか。樽本説を否定できる新しい発見がないではないか。附:『繍像小説』刊行一覧
20141001
いくたびかの阿英目録7
樽本照雄 『清末小説から』第115号 清末小説研究会2014.10.1
1-3頁。「6」からのつづき。題目は以下のとおり。『官場現形記』の海賊版は日本人が関係するか
20141002
早期漢訳ドーデ「最後の授業」4――胡適訳「最後一課」のばあい
神田一三 『清末小説から』第115号 清末小説研究会2014.10.1
23-28頁。「3」からのつづき。胡適部分は完了する。題目は以下のとおり。その他の論文/ドーデ「最後の授業」評価の中国における新しい展開
20141003
周作人漢訳ヨーカイ・モール3完――『匈奴奇士録』の英訳底本について
樽本照雄 『清末小説から』第115号 清末小説研究会2014.10.1
29-36頁。「2」からのつづき。題目は以下のとおり。周作人『匈奴奇士録』の英訳底本
20141004
商務版「説部叢書」研究の昔と今3(上)――改組の時期
樽本照雄 『清末小説から』第115号 清末小説研究会2014.10.1
42-52頁。「説部叢書」の成立過程において疑問がひとつある。2作品を入れ替えて改組した事実はある。しかし、その時期を確定することができなかった。初集リボン文様の『劇場奇案』再版奥付が根拠だ。だが、そこに示された初版刊年がはたして確かなものかどうか確認できない。つまり、それ以前の元版タンポポ文様初版が発見されていないのが障害となっている。そのため、以前は改組を1913年だと推測しなおした。これが誤りであることがわかった。付建舟の著書に元版タンポポ文様1908年初版の写真を見ることができる。これが決め手となる。改組時期は、以前に考えた1908年で間違いない。題目は以下のとおり。理解度で分類/中国での研究
20150101
いくたびかの阿英目録8
樽本照雄 『清末小説から』第116号 清末小説研究会2015.1.1
1-5頁。「7」からのつづき。題目は以下のとおり。明治42年は1908年か
20150102
早期漢訳ドーデ「最後の授業」5――黄静英訳「最後之授課」のばあい
神田一三 『清末小説から』第116号 清末小説研究会2015.1.1
6-15頁。ドーデ「最後の授業」を漢訳した黄静英「最後之授課」がある。郭延礼は、黄静英がフランス語原文から翻訳して逐語訳だと絶讃した。本当にそうか。フランス語原文、英語重訳、黄静英漢訳を比較対照する。その結果は次のとおり。黄静英が底本に採用したのは、フランス語原文ではない。英語重訳(アイヴス英訳)である。削除が多い。原文とは関係のない書き換えを大胆に行なっている。逐語訳ではない。黄静英漢訳は、胡適漢訳と同程度に信頼できない翻訳である。題目は以下のとおり。郭延礼論文/フランス語原文からの漢訳か/「最後の授業」の英訳/黄静英漢訳を検討する/そのほか
20150103
商務版「説部叢書」研究の昔と今3(下)――改組の時期
樽本照雄 『清末小説から』第116号 清末小説研究会2015.1.1
20-26頁。「上」からのつづき。題目は以下のとおり。日本における研究/改組年の確定/中国における最新の研究/表:「説部叢書」の変遷一覧(2014.10.24補訂)
20150201
清末小説年表の最新成果――陳大康『中国近代小説編年史』について
樽本照雄 『東方』2015年2月号(第408号)2015.2.5
30-35頁。『中国近代小説編年史』全6冊(北京・人民文学出版社2014.1)の書評。清末小説年表であり貴重な資料集でもある。次の注目点(瑕瑾3件)を指摘する。『繍像小説』発行遅延説、海賊版『官場現形記』、商務印書館版「説部叢書」。小さなキズは資料集としての価値を損なわない。
20150401
いくたびかの阿英目録9
樽本照雄 『清末小説から』第117号 清末小説研究会2015.4.1
1-5頁。「8」からのつづき。題目は以下のとおり。資料から見る時代の制約
20150402
早期漢訳ドーデ「最後の授業」6――最初の漢訳虞霊「戦後」のばあい
神田一三 『清末小説から』第117号 清末小説研究会2015.4.1
30-36頁。ドーデ「最後の授業」を最初に漢訳したのは虞霊「戦後」である。〓文文2013がそう指摘した。それ以上に深く説明はしていない。虞霊がよったのは、フランス語原文か、それとも英訳を転訳したのか。それから検討をはじめる。題目は以下のとおり。諸説が消滅する/作品にたどりつくまで
20150701
いくたびかの阿英目録10
樽本照雄 『清末小説から』第118号 清末小説研究会2015.7.1
1-5頁。「9」からのつづき。題目は以下のとおり。複数の作品名1――漢訳ホームズのばあい/複数の作品名2――贋作ホームズのばあい
20150702
早期漢訳ドーデ「最後の授業」7完――最初の漢訳虞霊「戦後」のばあい
神田一三 『清末小説から』第118号 清末小説研究会2015.7.1
16-23頁。「6」からのつづき。本稿完。新発見がある。虞霊漢訳は、馬場孤蝶の日本訳「戦後」を底本に使用していた。題目は以下のとおり。本文の説明/漢訳の底本/漢訳を検討する/まとめ/馬場孤蝶日本語訳の存在――結論
20150703
原作の探索――「夢遊二十一世紀」を例にして
沢本香子 『清末小説から』第118号 清末小説研究会2015.7.1
24-32頁。ディオスコリデス原作の漢訳「夢遊二十一世紀」は、底本になにを使用したのか。中村忠行がベッカーズ英訳だと指摘しているにもかかわらず、最近の中国人研究者2名は上條信次日訳が底本だと説明している。英語、日本語、中国語の翻訳3種類を示して、英語訳が底本であることを確定する。題目は以下のとおり。はじめに/漢訳「夢遊二十一世紀」/研究界における『繍像小説』/記述のブレ/日本での研究/日中での研究/中国における最近の研究/原作の探索/結論
20150704
「綺羅沙夫人」の原作
沢本郁馬 『清末小説から』第118号 清末小説研究会2015.7.1
33-頁。今まで不明であった「綺羅沙夫人」の原作が徳冨蘆花「大隠謀」(『探偵異聞』民友社1900.11.24/1907.12.1三版所収)であることを突きとめた。
20151001
いくたびかの阿英目録11
樽本照雄 『清末小説から』第119号 清末小説研究会2015.10.1
1-12頁。「10」からのつづき。題目は以下のとおり。藍文海漢訳『父与子』の刊年と底本
20151002
漢訳『奇獄』の謎1――問題提起篇
沢本香子 『清末小説から』第119号 清末小説研究会2015.10.1
24-34頁。『奇獄』の一、二ともに同じ原作を日本語経由で漢訳されたというのが定説だ。底本は、マックウアッテル(George McWatters)作、千原伊之吉訳『(摘陰発微)奇獄』である。それに対して疑義を提起する。すなわち1冊はマクワッター原作の日訳でよい。だが、もう1冊はマクワッター原作ではない。別の原作を漢訳したものだとのべる。題目は以下のとおり。阿英の記述/中村忠行の指摘/中国での記述/原作から日訳を経て漢訳へ/『奇獄一』に関する研究者の理解/奇妙な『奇獄二』/問題の所在
20151003
注目点4:『官場現形記』の海賊版
樽本照雄 『清末小説から』第119号 清末小説研究会2015.10.1
35-42頁。『官場現形記』海賊版について陳大康が珍説を発表している。珍説とは、海賊版を作成したのは日本金港堂だと断言したことだ。証拠は存在しない。新聞広告に出てくる単語を組み合わせて作りあげた妄想捏造である。妄想捏造だという根拠はなにか。日本金港堂は当時商務印書館との合弁会社だったからだ。商務印書館が刊行する雑誌『繍像小説』の主編が李伯元だ。李伯元が執筆刊行している『官場現形記』をなぜ商務印書館との合弁会社である金港堂が盗んで印刷するだろうか。海賊版作成の主犯が金港堂であると主張するならば、その証拠を提出する義務と責任が陳大康にはある。陳大康著『中国近代小説編年史』の書評の一部を先行発表した。
20151004
#19『清末民初小説目録X』
樽本照雄編 清末小説研究会2015.10.10電字版(ウェブ公開 非売品)
樽目録X。清末小説研究会ウェブサイトで公開。A4判換算で、説明pdf3.85MB148頁、本文pdf38.10MB5,750頁。収録総計は35,790件。その内訳は、創作26,004件、翻訳9,739件、創作と翻訳の合集47件となる。追加:説明と本文を統合した書籍型を公表した。23.10MB
20160101
+21いくたびかの阿英目録12
樽本照雄 『清末小説から』第120号 清末小説研究会2016.1.1
1-5頁。「11」からのつづき。題目は以下のとおり。+21誤植について――ハンニバルのばあい/ちかごろの電字図書館
20160102
+21漢訳『奇獄』の謎2――問題解決篇
沢本香子 『清末小説から』第120号 清末小説研究会2016.1.1
25-31頁。題目は以下のとおり。謎を解明する鍵/漢訳小説集『虚無党』の底本/『奇獄二』の正体
20160103
『上海のシャーロック・ホームズ ホームズ万国博覧会 中国篇』
樽本照雄編訳 国書刊行会2016.1.20
冷血著「上海のシャーロック・ホームズ 最初の事件」、天笑著「上海のシャーロック・ホームズ 第二の事件」、ワトスン著、鴛水不因人訳「深く浅い事件」、冷血著「モルヒネ事件――上海のシャーロック・ホームズ 第三の事件」、天笑著「隠されたガン事件――上海のシャーロック・ホームズ 第四の事件」、桐上侶鴻訳「福爾摩斯最後の事件」、ワトスン著「主婦殺害事件」、作品解説、あとがき
20160401
+21いくたびかの阿英目録13→題名変更「李伯元研究で留意すべきいくつかの要点――陸克寒、譚坤著『李伯元評伝』について」
樽本照雄 『清末小説から』第121号 清末小説研究会2016.4.1
1-9頁。「12」からのつづき。題目は以下のとおり。李伯元研究で留意すべきいくつかの要点――陸克寒、譚坤著『李伯元評伝』について。細目は以下のとおり。1李伯元と『繍像小説』の関係――主編問題、2『繍像小説』の発行遅延問題、3李伯元死去と彼の作品の関係、4『官場現形記』海賊版についての訴訟問題、5李伯元と劉鉄雲の関係――特に「文明小史」と「老残遊記」の改竄没書事件と盗用事件、6李伯元と欧陽鉅源の関係
20160402
+21日本語訳『海上大冒険談』の底本
神田一三 『清末小説から』第121号 清末小説研究会2016.4.1
9-16頁。村上濁浪庵(俊蔵)訳述『海上大冒険談』の底本はジェイムズ・フェニモア・クーパーだと日本国会図書館の書誌には明記してある。だが、それは間違い。正しくはQ編“The Story of the Sea”であった。英語原本→日本語抄訳→漢語という順に翻訳されたことを述べる。題目は以下のとおり。『海上大冒険談』の底本問題/日訳『海上大冒険談』/底本をめぐる新展開/樽目録Xの記述/探索の試行錯誤/Qの出現/The Story of the Seaについて/Q原作と村上日訳/村上日訳と漢訳
20160403
+21漢訳『奇獄』の謎3――結論検証篇(上)
沢本香子 『清末小説から』第121号 清末小説研究会2016.4.1
30-39頁。題目は以下のとおり。「虚無党之秘密会」のばあい
20160404
+20漢訳ラム『シェイクスピア物語』の序 1――「区別がつかない論」再び
樽本照雄 『清末小説から』第121号 清末小説研究会2016.4.1
40-49頁。ラム『シェイクスピア物語』の漢訳は、1903年の漢訳者不詳『〓ミズ解}外奇譚』と1904年の林紓、魏易訳『吟辺燕語』の2種類がある。莎劇(詩)をラム姉弟が散文で小説化したものだ。それぞれに序文がつけられている。序文の記述を解析することによって漢訳者が、莎劇を詩、ラム本を散文と認識しているかどうかを検討する。大方の論文で指摘されている、詩と小説の区別がついていない、という結論がくつがえる。樽本「阿英による林紓冤罪事件――『吟辺燕語』序をめぐって」(『林紓研究論集』2009所収)を深化させた論文である。題目は以下のとおり。劇作家と詩人に区別する/詩人と劇作家/シェイクスピア(詩)とラム(散文)/漢訳ラム本など/シェイクスピア名の漢訳と肩書き/追加資料2件/詩人シェイクスピア/ラム序文
20160501
+18『初期商務印書館研究(増補版)』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2016.5.1 電字版
総550頁。『初期商務印書館研究(増補版)』2004年の電字版。
20160502
+19『商務印書館研究論集(増補版)』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2016.5.15 電字版
総515頁。『商務印書館研究論集』2006年を増補
20160701
+21いくたびかの阿英目録14
樽本照雄 『清末小説から』第122号 清末小説研究会2016.7.1
1-4頁。「13」からのつづき。題目は以下のとおり。同一書籍に異なる説明――唐〓蔵書のばあい
20160702
+20漢訳ラム『シェイクスピア物語』の序 2――「区別がつかない論」再び
樽本照雄 『清末小説から』第122号 清末小説研究会2016.7.1
4-14頁。「1」のつづき。題目は以下のとおり。『〓外奇譚』のばあい/ラム本とシェイクスピア/英語論文の訳例いくつか
20160703
+21漢訳『奇獄』の謎4完――結論検証篇(下)
沢本香子 『清末小説から』第122号 清末小説研究会2016.7.1
15-19頁。題目は以下のとおり。「銀柄斧案」のばあい/「亜門特被殺案」/「假死竊産案」
20160704
+21孫毓修『伊索寓言演義』の底本
沢本郁馬 『清末小説から』第122号 清末小説研究会2016.7.1
25-30頁。漢訳イソップ寓話のひとつ孫毓修訳『伊索寓言演義』の底本を特定する。中国では底本を調査せず、「原文」と称するものと比較対照して孫毓修漢訳を点検している。研究として成立しない。例外がひとり日本にいる。内田慶一がThomas James本だと指摘した。その根拠となる挿絵が問題だ。内田は孫毓修本に見える挿絵はジェイムズ本だというのだが、実際に見れば異なる。ジェイムズ本は底本ではない。タウンゼンド本であることを突きとめた。
20160705
+20【書評】中国のシェイクスピア最新成果
樽本照雄 『清末小説から』第122号 清末小説研究会2016.7.1
35-37頁。林紓は戯曲を小説化して漢訳したと批判される。しかし、小説化されたラム本、クイラー=クーチ本を漢訳すれば小説になるのは当然だ。ただ、林紓は漢訳刊行にあたり底本の名前を出さなかった。瀬戸博士は、名前を出さなかったことだけを頼りに「シェイクスピア作品ではないものをシェイクスピア作品として紹介した」と批判する。鄭振鐸らが「誤解」したため「誤りの通説」が発生した。そうなる原因は林紓が作り出した。小説化というやってもいないことをやったと批判される被害者の林紓が、瀬戸博士の手にかかると「誤解」させた加害者に変身する。奇妙奇天烈でとんでもない主張だという。抑えめに書いた。
20160901
+23王文君論文について
樽本照雄 清末小説研究会ウェブサイト2016.9.4に掲載
王文君が『繍像小説』の発行遅延問題を取りあげている。以前の論文の焼き直し。停刊時間に問題を絞った。しかし、停刊時間についてはすでに結論がでている。新しい発見であるということはできない。また、以前の論文において樽本が指摘した問題を無視する。畢樹棠論文を魏紹昌編の資料集から引用して間違う。魏紹昌が肝心の雑誌停刊年月について書き換えた事実を知らないからそうなった。研究の基本を実行していないのもよくない。
20161001
+21林訳『伊索寓言』の底本(上)――挿絵の謎を解く
沢本郁馬 『清末小説から』第123号 清末小説研究会2016.10.1
1-〓頁。林紓らがイソップ寓話を漢訳した『伊索寓言』(1903)の底本を特定する。いままで底本が明らかになっていないことのほうが不思議だ。そこには「挿絵の謎」がある。『伊索寓言』に収録された挿絵と一致する英訳本が存在しない。挿絵と英文は分けることができない一組のものとして考えられている。その鉄則に従えば、ヒルが断定する林訳の底本は存在しない、も正しい。しかし、底本のない林訳はありえない。挿絵にまつわる「謎」である。挿絵の謎を解くことによってのみ『伊索寓言』の底本を特定することができる。問題が解決しなかったのは、挿絵と一致する英訳本だけを探していたからだ。林紓とその漢訳、商務印書館との関係、当時の教科書出版情況にまで視野を広くしてようやく問題が解決した。
20161002
+20漢訳ラム『シェイクスピア物語』の序 3――「区別がつかない論」再び
樽本照雄 『清末小説から』第123号 清末小説研究会2016.10.1
頁。「2」のつづき。題目は以下のとおり。前号補足/『英国詩人吟辺燕語』のばあい/ハガードと並べる/杜甫と並べる/家庭から劇場へ
20161003
#20『清末民初小説目録X2』
樽本照雄編 清末小説研究会2016.10.1電字版(ウェブ公開 非売品)
樽目録X2。清末小説研究会ウェブサイトで公開。A4判換算で、全体65MB。5,992頁。収録総計は36,395件。その内訳は、創作27,741件、翻訳8,607件、創作と翻訳の合集47件となる
20161004
#20(『清末民初小説目録X2』)X2あとがき
樽本照雄編 清末小説研究会2016.10.1電字版(ウェブ公開 非売品)
20170101
+20漢訳ラム『シェイクスピア物語』の序 4完――「区別がつかない論」再び
樽本照雄 『清末小説から』第124号 清末小説研究会2017.1.1
1-20頁。「3」のつづき。題目は以下のとおり。「林序」のラム本表記/莎劇(詩)とラム本/阿英による誤解の影響/伝本多数/劉半農から胡適を経て鄭振鐸へ/劉半農の「区別がつかない論」/瀬戸博士の理解/「誤った通説」の原因は林紓にある――トンデモ説の出現/「シェイクスピア作品ではないもの」/加害者が被害者に成りすます/瀬戸博士は林紓を詐欺師に認定し林紓の名誉を毀損する/余話/林紓冤罪事件――魯迅との関係/「林紓を罵る快楽」
20170102
いくたびかの阿英目録15
樽本照雄 『清末小説から』第124号 清末小説研究会2017.1.1
20-22頁。「14」のつづき。林訳『伊索寓言』の底本を追究した経験を別訳に応用したもの。題目は以下のとおり。汪原放訳『伊所伯的寓言』の底本
20170103
新しい「説部叢書」研究
神田一三 『清末小説から』第124号 清末小説研究会2017.1.1
22-34頁。商務印書館版「説部叢書」研究の2論文を紹介評論する。鄭方曉『清末民初商務版《説部叢書》研究』2013博士論文および付建舟「商務印書館“説部叢書”初集考述」(『漢語言文学研究』2015年第4期 2015.12.15)だ。鄭方曉論文は「説部叢書」初集本(四集系列)総324編あると指摘し従来の総322編よりも多い。それは元版(十集系列)に作品の入れ替え2編があるため実質は12編になるからだ。私は元版(十集系列)102編とするのが適切だという。もうひとつ過渡期初集本を3種類を提示したところが新しい。ただし、その表紙は元版タンポポ文様であり、「第一集」と表示する。これは初集の形態ではない。元版を延長した変種だ。商務印書館編訳所が試行錯誤した結果に出現したものだと判断した。付建舟論文は次のことを指摘する。元版(十集系列)が刊行終了したのは「1907年7月」だ。『掃迷帚』再版に掲載される広告に元版(十集系列)刊行終了とある。その再版奥付に表示しているのが「1907年7月」。それを立論の根拠にした。だが、それは再版に見える初版の刊年である。初版にその広告が掲載されている保証はない。ゆえに根拠にすることはできない。資料とすべきは広告ではない。元版(十集系列)の実物を見なければならない。その結果付建舟の立論は間違いであることがわかる。。実際に刊行された書物の奥付を確認すれば元版(十集系列)刊行終了は1908年である。
20170104
+21林訳『伊索寓言』の底本(下)――挿絵の謎を解く
沢本郁馬 『清末小説から』第124号 清末小説研究会2017.1.1
35-48頁。「上」のつづき。題目は以下のとおり。ほかの教科書への影響/『伊索寓言』初版とタウンゼンド300絵50本の比較一覧表
20170105
+20『林紓冤罪事件簿(統合増補版)』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2017.1.15 電字版
総946頁。『林紓冤罪事件簿』2008、『林紓研究論集』2009を統合し論文7本を増補する
20170106
+21『清末翻訳小説論集(増補版)』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2017.1.15 電字版
論文25本を増補して全1,208頁になった
20170107
+22『漢訳アラビアン・ナイト論集(増補版)』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2017.1.15 電字版
総346頁。『漢訳アラビアン・ナイト論集』2006の増補版
20170108
+21清末翻訳小説雑考――いくたびかの阿英目録(選)
樽本照雄 『清末翻訳小説論集(増補版)』清末小説研究会2017.1.15
『清末小説から』連載中の「いくたびかの阿英目録」から翻訳小説関係の文章を選抜する。1 阿英目録の特色 1129、2 先行目録など 1133、3 阿英が隠した翻訳文学目録 1134、4 阿英は雑誌と翻訳を重視する 1139、5 実現しなかった叢書の企画 1140、6 周越然目録 1144、7 翻訳小説「空谷佳人」の怪 1146、8 英国人博蘭克巴勒の正体 1151、9 複数の作品名1――漢訳ホームズのばあい 1154、10 複数の作品名2――贋作ホームズのばあい 1159、11 藍文海漢訳『父与子』の刊年と底本 1163、12 誤植について――ハンニバルのばあい 1182、13 同一書籍に異なる説明――唐〓蔵書のばあい 1185
20170201
+23『清末小説二談』
樽本照雄 日本・清末小説研究会2017.2.1 電字版
総710頁。
20170202
+23上海のシャーロック・ホームズ(初稿)
樽本照雄 『清末小説二談』日本・清末小説研究会2017.2.1 電字版
樽本編訳『上海のシャーロック・ホームズ ホームズ万国博覧会 中国篇』国書刊行会2016.1.20の「あとがき」として書いた。実際に収録されたものには手が入っている。これが元原稿である。該書に収録する作品が決定するまえに執筆した。ゆえに収録されなかった作品にも言及している
20170401
いくたびかの阿英目録16
樽本照雄 『清末小説から』第125号 清末小説研究会2017.4.1
1-8頁。「15」のつづき。『繍像小説』発行遅延説の提出と研究者たちの過去における反応を記述する。主題は阿英に呪縛された中国学界だ。題目は以下のとおり。中国学界において権威であるということ――『繍像小説』の発行遅延問題/魏紹昌の暴走/張純が登場する/発想を転換する
20170402
『瑞西独立警史』について1――漢訳「スイス独立史」
沢本香子 『清末小説から』第125号 清末小説研究会2017.4.1
9-15頁。『瑞西独立警史』の底本が日本の谷口政徳(睨天逸史)纂訳『(血涙万行)国民之元気』前後編(金泉堂1888.1)であることを指摘する。題目は以下のとおり。1 スイス史とウィリアム・テル/2 『国民之元気』のばあい/3 『瑞西独立警史』のこと
20170403
商務版「説部叢書」試行本
神田一三 『清末小説から』第125号 清末小説研究会2017.4.1
22-24頁。「説部叢書」元版の表紙タンポポ文様と集番号の「第一集」を継承した版本が存在する。いままで知られていなかった。のちの初集本と併存するこの版本は試行本であることを説明する。書影あり。